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江戸時代 多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

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多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

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千代池からの大麻山と五岳

前回は金倉川の付け替えによって廃河跡が水田として開発され、
河道を利用してため池が次々と作られたこと、
その開発リーダーが多度津・葛原村の庄屋・木谷家であった
という「仮説」をお話ししました。

今回は、築造された千代池を木谷家が、どのように維持改修したかを見ていくことにします。今回は仮説ではありません。

木谷家には代々の家長が残した記録が「萬覚帳」として残されています。これを紹介した「讃岐の一豪農の三百年」によって眺めていきます。その際に、江戸時代前半と、後半ではため池改修工事の目的が変化していくことに注意しながら見ていこうと思います。
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多度津の旧葛原村には、今でも千代代池、新池、中池、上池の四つのため池があります。これらは旧四条川の河道跡に17世紀後半に築造されたものです。その中でも千代池は広さ五㌶、貯水量90万㎥と、多度津町内のため池の中では最大級の池です。  

ため池には、メンテナンス作業が欠かせませんでした。

特に腐りやすい木製の樋管、排水を調整するか水門(ゆる)やそれを支える櫓などは約二〇年おきに取り替える必要がありました。
また粘土を突き固めただけの堤もこわれやすく
「池堤破損、年々穴あき多く、水溜まり悪しく、百姓ども難儀仕り候」

と藩への願書がくりかえし言うように、修理が常に求められたのです。これを怠ると水が漏れ出し、堤にひびが入り、最悪は決壊ということもありました。
「ため池 樋管」の画像検索結果
現在のため池の樋官

それでは、江戸時代のため池改修はどんな風に行われたいたのでしょうか?

江戸時代前半は「木製の樋竹・水門・櫓などの修理」に重点

 江戸時代前半期の修築工事は、丸亀藩の意向もあったのか、朽ちた木製の樋竹・水門・櫓などの修理に重点が置かれています。堰堤の補修や補強にはあまり力を入れた形跡がありません。
 木谷家に残る江戸時代前期の資料からは、当主四代、ほぼ六〇年間に行われた計27件の池普請に使われた労働力の内訳が記録されています。それを見ると大工99人、木挽き79人など木製品に関わる職人数が多く、堤の補修にたずさわる人足は延べ604人に過ぎないのです。
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丸亀藩の補修工事には「郷普請」と「自普請」ありました。
前者はため池の水を利用する村(水掛り村)が複数ある場合で、藩が工事を直接指揮監督しました。後者は水掛り一村のみで、藩の援助は無く費用も労力(人足)も、その村が単独で負担しました 
葛原村の池普請は、すべて後者でしたから藩の援助はありません。
その場合でも村役人は大庄屋・代官を通じ藩に、その計画・実施を願い出、許可を受ける必要がありました。そのため「萬覚帳」には、享保(1726)から文政元年(1818)の92年間に計34件の池停請が申請文書が残されています。村にある4つの池で、3年に一度はどれかの池で修築工事が行われていたことになります。
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旧河道に架けられた橋

 木谷小左衛門の試みは、貯水量を増やすこと       

 江戸時代後半になると、村の周囲はほぼ水田化され耕地を増やす余地がなくなってきます。そんななかで、米の収穫量を増やす道は、乾燥田への給水確保以外になくなります。つまり、ため池の貯水量の増量という方法です。そのためには堤防のかさ上げが、もっとも手っ取り早い方法です。
 この「要望」に、対応したのが江戸時代後半に木谷家当主となる木谷小左衛門です。彼は天明八年(1788)に庄屋となると、ため池補修の重点を、池全体の保水量を増やすため、堰堤のかさ上げや側面補強などに移します。彼は、堰堤を嵩上げする作業を「萬覚帳」に「上重(うわがさね)」と記しています。その方法手順は、
1 まずに工事現場に築堤用土を運び上げ、堤敷に15㎝の厚さに撒き、
2 それを大勢の人足が並んで踏みつけながら、突き棒で10㎝ぐらいまでに突き固め、
3 めざす厚さまで何回も積み重ねる
4 そして池底の浚渫・掘り下げです。晩秋、すべての農作業が終わった後、池を空にして底土を堀りおこし池の深さを確保する。
こうして貯水量を増やそうとしたのです。
この工事成否は投入される人足の数にありました。
 小左衛門は寛政三年(1791)から文政元年(1818)まで、28年間に計7件の池普請を願い出ています。
そのうち最も人掛かりなのは寛政7年の千代池東堤(長さ282㍍)の嵩上げと前付け、さらに南・北堤(合わせて長さ430㍍)の前付け・裏付け(両側面補強)に池底の一部(1700㎡)の掘り下げなどを加えたものです。
 これらの工事に投ぜられた人足数は延べ6699人に達しています。先ほど見た江戸時代前期の改修工事の延べ人足数が600人程度であったのに比べると10倍です。このほかの6件も樋・水門・水路などの従来型補修のほかに、堤の嵩上げ、補強、池底掘り下げなどを含む規模の大きな工事です。それらには計13400人の人足が動員されています。結局、全7件の人足総数は延べ2万人を超えました。

「ため池 å·\事」の画像検索結果
人足は、賦役として動員された「ただ働きの人足」だったのでしょうか?
「萬覚帳」によれば、池普請で働く人足一人には一日あたりし7合5勺の米が扶持として給されています。その総量は150石余(375俵)になります。自普請の場合、この費用は名目上は、村が負担しましたが、実は村の納める付加税の四分米(石高の四パーセント)がこれにあてられました。葛原村にとって、それは一年につき38石=95俵になります。
 これは藩にとり付加税収入の減少を意味します。もちろん池普請は毎年あったわけではありませんが、財政窮迫に悩む多度津藩にとって、決して好ましいことではなかったはずです。 
藩の意向にさからってまで、池普請で村を豊かにしようと努めた小左衛門は新しいタイプの庄屋と言えるのかもしれません。
 
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別の視点から池普請を見てみることにしましょう。

 労働力市場から見ると人口800人ばかりの村にとって、農閑期の三、四か月間に参加すれば一人当り米七合五勺を支給される冬場の池普請は、貧しい水呑百姓や賎民たちには「手間賃かせぎ」の好機として歓迎されたようです。今で云う「雇用機会の創出」を図ったことになります。ピラミッドもアテネのパルテノン宮殿も、大阪城も、「貧困層への雇用機会の創出という社会政策面」を持っていたことを、近年の歴史学は明らかにしています。そして、これをやった指導者は民衆の人気を得ることできました。
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こうして、千代池は川下の堤防だけだったのが、周囲全体に堤防が回る現在の姿に近づきました。近年には散策路や東屋も作られ、散歩やジョッキングする人たちの姿を見かけるようになりました。
21世紀になって「レクリエーション」という機能を、この池は付け加えたのかもしれません。


多度津藩葛原村の庄屋の日常業務は?

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江戸時代の庄屋(村役人)さんの「日常業務」とは、どんなものだったのでしょうか。

多度津・葛原村の庄屋を長く務めた木谷家には、享保から文政までのほぼ一世紀間、葛原村のさまざまな日常生活の様子が記録されています。木谷家の歴代当主の残した「萬覚帳」をのぞいて、庄屋の日常を垣間見ることにしましょう。

村は警察機能の末端として、今の駐在所のような役目も果たしました。

その一つに、葛原村や千代池で起こる投身自殺の処理について次のような記録が「萬覚帳」に出てきます。
丸亀藩士の下女が千代池で人水自殺し、翌朝発見されたので藩に報告した。多度津藩から通服を受けた兄弟(親藩の足軽)2人がその日の夜半に丸亀から駆けつけ、遺体を引き取って行った。その対応の迅速さに驚いた。
丸亀藩領の他村で起こった身元不明の僧と女性の「相対死」(心中)入水事件に身元確認のために現場に呼ばれた。葛原村の村役人として、顔吟味に参加したが自村のものではないので、代官に当村に該当者無しと報告した。

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千代池

  この文書からは、村には江戸の街のような奉行も岡っ引もおらず、庄屋自らが出向いて、業務にあたっていることが分かります。村には「専従職員」がいないのです。庄屋さんは、村長兼と駐在所員、時には裁判官といくつもの職務を「兼務」していました。村役場も独立したものはなく庄屋宅に置かれていました。

葛原村墓地で博打と強請(ゆすり)が発覚します。

文政2年(1819)4月のことです。
まず庄屋は、藩に内々での処置を申し出て同意を取り付けています。この賭博事件の被害者で、同時に博打禁止の違反者でもあるのは葛原村の五人、加害者、強請った四人中三人は他村の者でした。葛原村の村役人が藩に事件を公にせず内済を望んだ背景には事件全体の違法性と合計銀五〇匁-という被害額、さらに犯人が他村にまたがる訴訟へのためらいがあったようです。

若殿の籠に、投げたものが当たってしまう事件には

同じ年には、藩主の若君がお忍びで葛原村を通った際に、若君の「御犬」が一農民の軒先で竹龍内の白鷺に吠えかかる事件が起きます。追い払おうと農民が犬に投げたものが若君の御駕寵にあってしまったのです。村を訪れる代官を、庄屋はじめ村役人が土下座して迎えるという時代ですから、これは一大事です。
 庄屋の木谷小左衛門(永井)は、早速その農民を郷倉(牢)に入れ「無礼」を罰します。同時に藩の代官と内々の折衝を続け、二日後に「御願書差上」という形で事件を「御代官様お手元切りに相済ます」決着に漕ぎつけています。

庄屋の村人を守るという役割 

このように、村は村内での事件や小犯罪をできるだけ藩にゆだねず、内々に処理しています。事件の処理が藩の手にわたると被疑者は拷問や厳しい追及に苦しみ、そのうえ刑が村外あるいは領外追放など比較的重いものになることが多かったのです。これに対し村の裁量に任された場合は、たいてい郷倉入りや自宅での閉門や禁足ですみました。
 「萬覚帳」に見る限り、郷倉入りで外との行き来を閉ざされたとはいえ、家族から百米麦七合までの「賄い」の差し入れは許されました。もし、家族が貧しい際には五人組や村が代わって負担しています。さらに郷倉入りの本人が高齢のうえ病弱であったりすると、倅が代人を努めることさえ許されています。
ここには、藩に対して村人を守ろうとする姿勢がはっきりと読み取れます。
「江戸時代 郷倉」の画像検索結果

さらに、庄屋が身元引受人となっている例です

 村人が多度津藩に小人(使い走り)として奉公する際に、庄屋が身元保証人になっています。それだけでなく、切米(給与)額や休日数などの雇用条件を細く決めた契約書(「御請状」)を、庄屋が身代わりになって藩との間で交わしていることが分かります。
 「萬覚帳」には寛政元年(1789)と同4年、二通の御請状写しがあります。その中の条項には
「奉公人への給米は年二回に分けて先払いされるが、もし期日前に米を返さず退職した場合、本人は立替え分に五割の利子をつけて返済する。
また決まった休日の日数をこえて欠勤する場合も、代人を立て役目に支障が起こらないようにし、それを怠った日数だけ切米は減額される。そして奉公人がその義務を果たさない場合、「御請状」を書いた庄屋が代わって弁済する」
と、現在からすれば「労働者側に不利な勤務条件」が記されています。要するに、庄屋は村出身の奉公人の身元保証にとどまらず、共同体の親として「悴(せがれ)」の不始末の尻拭いを求められていたのです。庄屋の「業務」は、広いのです。 

最後に、葛原村らしい四国巡礼の遍路に対する「業務例」を見てみましょう。

村には、七十六番札所金倉寺から七十七番道隆寺への遍路道は南北にまっすぐ村を貫いていました。その途中、八幡の森は深い木陰ときれいな湧き水で、疲れた遍路に得がたい休息の場を提供しました。森のはずれ、八幡宮参道口近くには旅寵もあり、村人も「お遍路」を心暖かく迎えたました。しかし、病をもつ老遍路のなかには、そのまま立ち上がれなくなる者も出ました。

「萬覚帳」には行き倒れ遍路について藩への届けが八件あります。

持っていた往来手形から名前・年齢・生国がわかり、遺体は国元に通知されることなく、その地に埋葬されました。身元不明の場合、村は丸亀・多度津両藩に通知し、遺体はその場に二、三日保存された後に葬られています。これも庄屋がおこないました。 

遍路が帰国をのぞむ場合は「村送り」による「送り戻し」(送還)を願い出ることもあったようです。

庄屋は、その遍路が「往来手形」宗門が明白で、多少の路銀をもち、順路の村々に格別の負担を掛けないですむかどうかを見極めてから「送り手形」を発行しています。そして「送り戻し」の途中に遍路の病が進んで死亡した場合は、途中の村は「送り手形」を出した村に文書で知らせてきています。
 病人で歩けない遍路を村境で受け取り、隣の村境まで送り、時には夜宿泊の世話もする「村送り」は、人手の要る作業です。これは藩を超えた村の連帯感と四国の庶民の「御大師信仰」に根ざした「おせったい」の心なしにはできないことです。 

同時に、村送り遍路への措置や手続きから見えてくるのは、 藩が民衆の移動の管理を行っていることです。

幕府や藩は農民が土地を離れ、他郷に行くことを基本的に嫌い、抑制しています。「移動の自由」は保証されていません。
 村民の一家が他村に引っ越す際にも、転居先の村へ予め「送り手形」を届けるこを求めています。その中で送出す村は、本人に年貢の未納や借財がないことを保障し、自分の村の人別帳からこの一家が抹消された後、相手村の「帳面」に書き加えられるよう依頼しています。また他村への養子縁組でも「送り手形」が相手側に送られています。

村と庄屋の二面性がもたらすものは?

以上見てきたように、村は行政の末端行政組織として藩の触れや法令を伝える支配機構の一部でした。しかし、それだけではなく、村内の争いや事件を解決するため村の掟を造り、司法・警察・消防の役割まで果たす「自治的共同体」の機能も持っています。
つまり二面性があったということです。
そして村には専門の専従者がいたわけでなく、村人は村役人や村寄合の指示に従い、自発的あるいは義務として協力したのです。

このような村民の頂点に立つのが庄屋でした。

庄屋は村役人中でも別格で、百姓身分で村人たちを代表する存在にもかかわらず、領主の意向を代表する任務を負わされています。
そして庄屋の私宅は村政の事務所=「政所」となり、村人はここに呼び出されて藩の触れや新法令の発布を知らされました。
 庄屋は村人自身によって選ばれ、村の自治を代表するとはいえ、その任免権は藩の手にあり、領主支配の末端業務の責任を負ったのです。庄屋の役割の二重性は、百姓の共同体であるとともに幕藩体制の末端行政組織という村の二重性をそのまま反映しています。 

領主と農民の間に立ち、対立する利害を調整する庄屋の立場は難しかったようです。

有能な庄屋は双方の立場と要求、力関係をはかりながら妥協と調停の道をさぐります。そのような庄屋の姿勢を指して、
人は「庄屋と屏風はまっすぐでは立たぬ」と云ったのでしょう。
これを現在では、政治力というのかもしれません。

 また江戸時代は、藩と村とのやりとりは細かいことまですべて文書をつうじて行われましたから、読み書きに馴れ、年貢徴収のための計算能力が求められます。場合によっては未進(年貢未納)農民に代わって米や代銀を立て替える財力も必要となります。もっともこの立替えにあたり、未進農民は自分の土地を質地として差し出しますので、土地併合には有利なポジションにあったと云えるかもしれません。

江戸時代の落語でよく登場する「大家さん」と同じように「庄屋さん」も庶民からは、悪者扱いされたり、批判の対象となることが多いようです。その裏で「日常業務」は大変だったことを改めて知りました。

参考文献 木谷 勤「讃岐の一豪農の三百年」刀水書房

丸亀駅と福島町は海で隔てられていた?

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丸亀駅裏に「新町」ができるまでのお話

「丸亀駅近くの線路の北側は明治の末ごろまでは海であった。
福島町はそこに浮かぶ中洲だった」と聞きました。本当
でしょうか?
いろいろな資料からそれを探ってみましょう。まず丸亀市史には
中世には「旧四条川」が津森天神宮の北辺りで海に流れ込んでいたとされます。
古代はここが「津守」で中津の湊があったとも書いてあります。
 現在、その北に広がる塩屋町は近世以後の開拓で陸地化されたようです。江戸時代には、丸亀駅の北側には旧四条川がもたらす堆積物で塩屋の方から突き出た洲浜が続いていたことが絵地図からも分かります。この洲浜を中須賀と呼び、浅瀬を挟んで浜町と向かい合っていました。
ここは誰も人の住まない砂嘴(さし)の先端でしたでした
 1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入ってきます。その2年後には、現在の丸亀城天守が石垣の上に姿を見せます。

中須賀に最初に家を建てたのは塩飽大工たち?

「福嶋町由来書」には、京極藩の支配が固まっていく中で大工十六人が、この中須賀に家を建てることを願い出て、許可され移り住んだことが記されています。最初に家を建て住み着いたのは、塩飽の大工達のようです。当時の丸亀は、京極氏の移封に伴う建築ラッシュで、塩飽大工が仕事を求めて丸亀城下に数多く入っていました。彼らが島に近いこの地に「進出・移住」しようとしたのでしょう。
その後、この中須賀へ移住する者が相次ぎ人口も急速に増えます。
二年後には天満宮を、さらに弁天財をここへ移し中須賀の氏神としました。その後も中須賀へ移住するは増え続けますが、海を隔てて不便なので1691(元禄四)年に長さ約二八・八㍍の橋が初めて架けられます。

当時の二代藩主京極高豊は、この橋を福島橋と名づけました。

同時に中須賀といっていたこの中洲は福島町と改められたのです。橋ができて便利になっため、
そして湊に近いという利便さ、
さらに庶民の町としての生活のしやすさなどから、
この中洲は最初に十六戸が移住してから約十年後の元禄六年には、家や人が百倍にもなったようです。

当時の福島町の景観は?

 このころの絵地図からは、福島の南岸と北岸には松林が東西に続いているのが見えます。南岸の松林は、現在の弁天通の南側に沿って東西に続き、松林の西には弁財天の祠があり、東には天満宮が見えます。その後、天満宮と弁財天を1力所に合わせ祀ります。
これが現在の厳島神宮天満宮(福島町)です。後には、ここで日照りの年には雨乞いの祈願もするようになり信仰の中心になっていきます。

金比羅詣での湊として繁栄する福島町

Ã\¤§Ã\‚からの玄関Ã\£ã¨ãªã£ã¦ã„た丸亀の湊
丸亀湊の賑わい(右が福島湛甫、左が太助燈寵のある新堀湛甫)

 時代とともに金比羅参詣の客が増えて「金比羅船船 追い風に吹かれてしゅらしゅしゅしゅ」の通り、福島町は繁栄していきます。
1806(文化三)年には、北側に船の停泊所が築かれます。
福島湛甫といわれ、東西111㍍・南北91㍍・東側にある入口32㍍、深さ3㍍の大きさで、太助燈寵のある東側の新堀湛甫より27年も前のことです。つまり、新堀湛甫が作られるまでは、金比羅詣での参拝者は、福島湛甫に上陸し福島の町を抜けて福島橋を渡り、金比羅への道を歩み始めたのです。


両宮橋の架橋

 こうして、福島が栄えるにつれ、多くなった通行人を福島橋一つでは賄いきれなくなります。そこで、その西に簡単な橋を架けることになりました。この橋は福島の天満宮と浜町の船玉神社との間に架けられたので両宮橋と人々は呼びました。現在でいえば、新町にある松田書店のあたりから南へ架けられていたようです。福島町には弁天筋、大井戸筋、榎木町、暗夜小路、材木町などの幾筋もの町筋が並ぶようになります。

確かに福島町は近世まで中洲であったようです。それが金比羅詣での盛況ぶりに合わせるかのように発展してきた町だったのです。

それでは福島町と丸亀駅の間にあった「海」は、どんな状態だったのでしょうか?

現在の丸亀駅のすぐ北は満潮時の深さは2,5㍍ほどでの海浜で、西汐入川が西から東へ流れ海に注いでいました。旧藩時代には、福島町弁財天社と浜町との間は藩の船隠しで、御召船泰平丸、住吉丸、御台所船浪行丸、先進丸。出来丸、幸善丸、白駒丸、その他漕船、小遣舟などの船体を繋留した所でした。南の浜町側には船の倉庫が十以上もあり、その関係の役所や長屋・小屋などが建ち並んでいました。ここが船手浜之町ですが、人々は俗に「船頭町」と呼んだようです。

それでは、福島町が陸続きになったのはいつなのでしょうか?

 それは明治の鉄道建設と関係があります。
1989(明治二十二)年、琴平まで讃岐鉄道が開通した時の丸亀駅は始発駅で、現在地よりは250㍍ほど西にありました。それから8年後に鉄道が高松まで延長されます。その際に、駅は現在地へ移りそこにあった「船手浜之町」の跡は消えます。しかし「船頭町」と呼ばれていた町の名は、その後も長く残ります。

 20世紀を迎え日露戦争に勝利すると、本格的な近代化の波が瀬戸の港にも押し寄せます。こうしたなかで、丸亀史は市は1909(明治41)年から西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手します。その手順は以下の通りです。
1 浜町銀座通りの鉄道線路までの丸亀港の浚渫、
2 西汐入川河口の埋め立てと福島湛甫の西側一帯の埋め立て   (広島方面行き三洋汽船発着場の西)
3 現在の流路への西汐入川の附け替え
 先ず港の浚渫によって出てくる土砂で西汐入川河口と福島湛甫の西側を埋め立てます。同時に、駅の方へ流れていた西汐入川を藤井建材店の所から流れを北へ変え、現在の流路にする工事でした。
この西汐入川の附け替えと埋め立てによって、水によって隔てられていた福島町は陸続きとなりました。
また埋め立てられた海(河口?)には、新町もできました。
新町は名の通り埋め立てによって1912(大正元)年に新しくできた町なのです。

この結果、西汐入川河口に架けられていた福島橋と両宮橋は不要となりました。福島橋の石造欄干は東汐入川の渡場の欄干に使われていましたが、これも今では、その一部が資料館に保存されているそうです。この欄干が福島町(島)と丸亀城下を結ぶ架け橋だった時代があったのです。

中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして?

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中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして?

中讃地域では仏さんの前で正信偈があげられ「南無陀弥陀仏」の六文字が称えることが多く、真宗信者の比率が非常に高いと感じます。
 資料を見ると
県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗です。

次が真言宗で、この二つで8割以上を占めています。
四国の他県の真宗比率を見てみると、阿波では13%、伊予ではわずか9%、土佐では24%です。阿波では、中世に阿波を支配していた三好氏が禅宗を保護したからです。伊予では臨済宗が多のですが、これは伊予の河野氏が禅宗に帰依し、保護したためのようです。それぞれの県に「背景」と「歴史」があるようです。

それでは、讃岐に真宗が多いのはなぜでしょう?
問題を過去に遡って考えるというのが歴史的な考え方です。
それに従うことにしましょう。

まず、いつごろどのようなルートで讃岐へ、真宗が入ってきたのでしょうか。

 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された法蔵院とされます。ここへ入ってきて、そこから周辺へ広かったのではないか、という推測ができます。しかし、残念ながら裏付ける資料がありません。
讃岐への真宗伝来を伝えるのは、三木郡の常光寺に残る文書です。
 史料①『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕 
当寺草創之濫腸者、足利三代之将軍義満公御治世之時、泉洲大鳥之領主生駒左京太夫光治之次男政治郎光忠と申者、発心仕候而、法名浄泉と相改口口口引寵り、仏心宗二而罷在候、其後京都仏口口口常光寺と号ヲ与へ給候、爰二又浄泉坊同詠之者二秀善坊卜申者在之候是も仏光寺門下と相成、安楽寺卜号ヲ給候、
然二仏光寺了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、応安元年四国之地江渡り、秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
この文書は江戸時代に書かれたものですが、比較的信憑性が高いとされています。要約すると
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依していった。
 ちなみに仏光寺というお寺は、そこにいた経豪上人が蓮如上人に仕えて、蓮如の一字をもらって蓮教と名を改めます。そして後に、興正寺というお寺に発展していきます。現在は京都の西本願寺の南に隣接してあります。
ここが真宗の讃岐伝播のひとつのポイントのようです。
真宗といえば、すぐに本願寺を連想しますが、讃岐に真宗を伝えたのは「仏国寺 → 興正寺」なのです。
興正寺を媒介として讃岐に真宗が伝わってくるのです。
 興正寺(仏国寺)の伝播は、まず阿波に入ります。

阿波の美馬郡に安楽寺というお寺があります。

安楽寺はもともと浄土宗の寺院でしたが、真宗に改宗していきます。安楽寺を拠点にして阿波と讃岐へと広がっていくのです。
安楽寺について資料を見てみましょう。
 史料②は篠原長政書状とありますが、これは安楽寺が焼かれ讃岐ヘー時的に「亡命」した時に出されたものです。この時に、財田駅の北側に宝光寺が創建されますが、私は「仏難を避け亡命政権」と考えています。この寺が後には、三豊方面への「真宗布教前線基地」になります。しばらくして、もとの美馬へ帰ることになります。阿波守護代の三好氏の許可状とともに、この長政の添状が「亡命政権」に届いたためです。
    史料②篠原長政書状〔安楽寺文書〕
 就興正寺殿ヨリ被仰子細、従子熊殿以折紙被仰候、早々還住候て、如先々御堪忍可然候、諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候、則承可申届候、於今度山科二御懇之儀共、不及是非候、堅申合候間、急度御帰寺肝要候、恐々謹言
      永正十七年十二月十八日          篠原大和守
                           長政(花押)
      郡里  安楽寺

①「興正寺殿ヨリ被仰子細」とあります。先ほど紹介したように、安楽寺の本寺である興正寺が和解に向けて働いたことが分かります。
②財田への「亡命」の背景には「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」という、賦役や課役をめぐる対立があったことが分かります。さらに「念仏一向衆」への宗教的な迫 害があったのかもしれません。
④要は、相談なしの新しい課役などは行わないことを約束して「阿波にもどってこい」と云っている内容です。安楽寺側の勝利に終わったようです。
 この領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後
急速に末寺を増やしていきます。安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。

安楽寺は阿波にありながら、なぜ讃岐に布教拡大できたのか。

讃岐と阿波との国境の阿讃山脈を越えて讃岐へと伝わります。
現在は三頭トンネルができて早くいけるようになりましたが、これは安楽寺と中讃を結ぶルートに当たります。三頭越のルートで伝わったのです。讃岐へ下りていくと土器川の上流に当たります。これを下れば丸亀平野です。国境を越えるといえば大変なように考えますが、当時はこれが「国道」で街道には人が行き交っていました。
安楽寺の末寺はほとんど中讃地域で、それも山に近い所に多いのはその「地理的な要因」がありそうです。

 真宗寺院の分布は、高松周辺と丸亀周辺にかたまっていますが、これは比較的新しくできた寺院が多いようです。一方、農村部に沢山の寺院があります。この農村部にある寺院の多くが安楽寺の末寺です。そして、山沿いのお寺の法が古いようです。これは山から平野に向けて真宗の「教線拡大」が進んだことを示しています。
 ここからも、讃岐の真宗の伝播は、一つには興正寺から安楽寺を経て広がっていったということが分かります。

ところで、吉野川の南側には安楽寺の末寺は見当たりません。

どうしてでしょうか。わたしは、吉野側の南側は高越山や箸蔵寺に代表される山岳密教の修験者達のテリトリーで、山伏等による民衆教導がしっかり根付いていた世界だったからだと思っています。そこには新参の真宗がは入り込む余地はなかったのでしょう。
 そのためにも阿讃の山脈を越えた讃岐が安楽寺の「新天地」とされたと思います。そして財田への「亡命」時代に布教のための「下調べと現地実習」も終わっています。こうして、阿讃の山々を越えての安楽寺出身の若き僧侶達の布教活動が展開されていきます。それは、戦国時代の混乱期でもありました。

参考文献 橋詰 茂讃岐における真宗の展開             

讃岐への真宗布教 海からの「教線拡大」はどう進められたか?

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讃岐への真宗布教 海からの「教線拡大」はどう進められたか?

浄土真宗の中讃への布教は、阿波の安楽寺が布教センターだったことを前回にお伝えしました。それは興正寺派の教線拡大につながりました。しかし、真宗の伝播には、もう一つ、海のルートがあります。
瀬戸内海を無視することができません。
 古代から瀬戸内海は東西を結ぶ「海のハイウエー」の役割を果たしてきました。島の湊はそのサービスエリアでもありました。この瀬戸内海を通じて真宗は入ってきます。これが本願寺のルートです。
 つまり、讃岐への真宗の伝播は、興正寺からのルートと本願寺からのルートの二つがあったことになります。讃岐の真宗寺院の分布状況を見ると、海岸線に本願寺系が多く、内陸部には興正寺系は多く存在しています。それは、海から伝わったか、阿波から伝わったかの伝播ルートのちがいによるようです。

 真宗と讃岐の結びつきはいつ頃から?

資料に「天文日記」というのがあります。この日記は本願寺の証卸が書いたものです。 
史料①『天文日記』天文十二年五月十日・七月二十二日
十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参第二七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
ここには天文十二(1544)「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、本願寺へ樽を持参しています。本願寺と讃岐寺院との直接のつながりを示す史料です。この時期から本願寺と讃岐の結びつきがあったことが分かります。七月二十二日 「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。香西氏が本願寺と結びつきをもっていたことが分かります。これ以外にも十河氏も日記に記されています。ここから讃岐の武士団の中に真宗信者が現れていることが推察できます。

なぜ讃岐の武士と本願寺の間に結びつきができたのか?

当時、讃岐は「阿波侍の支配下」にありました。そのため阿波の篠原長房に率いられて上洛し、本願寺へと赴くのです。それは長房の夫人は堺の真宗のお寺の娘さんという関係があったようです。それを縁に本願寺と長房は深い結びつきをもっていました。阿波侍に従った讃岐武士団の領主たちのなかにも、真宗の活動を保護する者もあらわれます。江戸時代になって、高松に入ってきた松平氏が興正寺と幾重もの婚姻関係を結び、興正寺派のお寺を何かと保護したことと重なる光景です。 
讃岐に真宗寺院が、急速に増加するのは享禄年間天文年間にかけてです。
 讃岐の真言・天台の旧勢力が衰えてきた地域に真宗が入り込んで、真宗に宗派替えをするようになります。地域的に見ると中讃地域に多いようです。改宗時期を見ると、讃岐で真宗寺院が増える天文年間(1532. 7.29~1555.10.23)のようです。

その中の一つに宇多津の西光寺があります。

この寺の「縁起」を見てみましょう。史料①『諦観山西光寺縁起』
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。
天文十八年(1550)に本願寺・証知の弟子になって、向専という名前を与えられています。そして、この寺に当時の支配者であった阿波の篠原長房が出した禁制(保護)が西光寺に残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記載があります。
 鍋屋というのは地名です。その付近に最初は「道場」ができたようです。それが「元亀貳年正月」には西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
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本願寺派に属する宇多津の西光寺の前は、かつては海でした。

江戸時代になって塩田が作られ、現在ではそれが埋め立てられて海は遙か北に退きましたが、この時代は西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の船着き場にこぎ寄せることが出来ました。本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきたのです。
 宇多津は中世は管領細川氏の拠点で当時の「県庁所在地」で、讃岐で最も繁栄する「都市」であり「湊」でした。その山手には各宗派の寺院が、建ち並んでいました。このような「宗教激戦地」の中で本願寺は、どんな形で布教活動を進めたのでしょうか? 興正寺派が農村で進めた布教活動とは、どんな点がちがっていたのでしょう。

まず、布教対象です。どのような人々が門徒になったかです。

 先ほど史料で見たように、西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。手工業に従事する人々が、この付近に住んでいたことが分かります。この地域には、今も西光寺の檀家が多くいるそうです。
 また宇多津は港町として繁栄しますが、水運業に関わる人たちのなかにも門徒が増えていくようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちであり、また西光寺も支えていたのです。
 ちなみに、宇多津の沖の本島・広島には多くの寺院がありましたが真宗寺院はありません。小豆島もそうです。讃岐の島々は旧勢力の真言宗が強く、真宗の入っていく余地はなく「布教活動」は成功しなかったようです。
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宇多津の西光寺が成長していく永禄年間というのは戦国時代の真最中です。
 当時の讃岐の状況は、阿波の三好氏が侵入してきてその支配下になっていました。また中央では、大坂の石山本願寺をめぐって織田信長と本願寺の対立が目増しに激しくなっていく時期です。その渦に、讃岐の真宗寺院が巻き込まれていくのです。
 当時は真宗の門徒たちが一致団結して、権力者に立ち向かっていく状況が各地で見られました。一向一揆ですが、その「司令本部」が石山本願寺(現大阪城)でした。石山本願寺と信長が直接対決するようになるのが元亀元年からで、この戦いを「石山戦争」と呼んでいます。この「石山戦争」に建立されたばかりの讃岐の真宗寺院が巻き込まれていきます。
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 大阪石山本願寺の顕如が阿波の慈船寺に当てた次の文書が残っています。史料⑦顕如書状〔慈船寺文書〕
近年信長依権威、爰許へたいし度々難題いまに其煩やます候、此両門下之輩於励寸志者、仏法興隆たるへく候、諸国錯乱の時節、卸此之儀、さためて調かたなく覚候へとも、旨趣を申候、尚様鉢においては上野法眼・別邸郷法橋可申候、あなかしこあなかしこ
     十月七日
      阿波               顕如花押
       坊主衆中へ
       門徒衆中へ
「阿波坊主衆中 門徒衆中」となっています。本願寺から直接阿波の寺院へ出したものです。内容は「信長の非道を責めつつ、信長と本願寺がついに戦いを始めたから、各地の門徒たちは本願寺を援助しろ」ということです。しかし、信長と戦うにも本願寺が自前の軍隊をもっているわけではありません。本願寺の要請によって各地の門徒たちがこぞって応援にかけつけることになります。また兵糧・軍資金の要請もします。このような顕如の手紙を「置文」といい、全国に多く残っています。
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西光寺本堂

 そして、讃岐でそれに応じたのが西光寺です。

 史料⑧下間頼廉書状〔西光寺文書〕
  回文「詳定」
  一 青銅七百貫
  一 法米五十解
  一 大麦小麦格解貳斗
 今度御門跡様織田信長と就御鉾楯不大方、依之其方以勧化之働、右之通獣上述披露候所、懇志之段神妙思召候、早奉仰御利運所也、弥法儀相続無出断仏恩称名可披相嗜事、白河 以肝要愉旨、能々相心得可申候由御意愉、則披顕御印愉悦
                       別邸郷法橋
     五月十三                頼廉(花押)
         西光寺 専念
これは本願寺の財務方の「法橋」からの礼状になります。
「青銅七百貨、植木五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状です。青銅七百貨は銭です。西光寺がそれだけの資金を準備できるお寺であり、それを支える門徒衆の存在がうかがえます。これは西光寺だけでなく、阿波の安楽寺や安芸門徒(広島)などの寺院も送っています。全国各地から多額の軍資金や兵糧が本願寺へ送られるのです。
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白壁の塀には「銃眼」が開けられています

 信長は本願寺と戦うだけでなく、あちこちで一向一揆と壮絶な戦いを繰り広げています。本願寺にとってみれば、長島・越前など各地のの一向衆の一揆がたたき潰されていくのですから、生き残りをかけた戦いで敗れるわけにはいきません。ここで敗れることは本願寺王国の壊滅というせっぱつまった状況にあったのです。信長にとってみれば、本願寺をたたき潰すことにより、長年の一向一揆との戦いに終止符をうつことになるのです。お互いに負けることができない戦いがこの石山戦争なのです。そして、同時展開で西欧で展開されていた「宗教戦争」とも似ていました。
 そして本願寺は戦いの向こうに展望が開けて行くことになります。

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どちらにしても、真宗の讃岐への伝播は
① 阿波ルートで「真宗興正寺派」が山から平野に
② 瀬戸内海ルートで「真宗本願寺」が、海岸の港町を拠点に
讃岐に「教線拡大」していくのです。

参考文献 橋詰 茂 「讃岐における真宗の展開」



国史跡 中寺廃寺について Q&A

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中寺廃寺について、分からないこと、分かったこと 

中寺廃寺は大川山に近い山の中にある「山林寺院」として「国史跡」に指定されています。しかし、地上に残るものを見てもその「ありがたさ」が私にはもうひとつ理解できません。そこで自分の疑問に自分で答える「Q&A」を作って見ました。
 なおこの寺の現況については以前に紹介しましたのでこちらをご覧ください。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48147528.html

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大川山からのぞむ中寺廃寺

Q1 中寺廃寺が、大川山の奥に建立されたのはどうして

 大川山(標高1043m)は。丸亀平野から見るとなだらかな讃岐山脈の上にとびだすピダミダカルな頂が特徴的でよくわかる山です。この山は、天平6年(734)の国司による雨乞伝説を持ち、県指定無形文化財となった念仏踊りを伝える大川神社が山頂に鎮座します。讃岐国の霊山・霊峰と呼ぶのにふさわしい山です。
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 B地区 割拝殿跡から望む大川山
聖なる山を仰ぎ見る「山岳信仰」と山林寺院は切り離せません。
仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきました。
比叡山延暦寺と日吉大社の関係をはじめとして、「山林寺」に隣接して土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られています。中寺廃寺は、大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所としてスタートしたと考えられます。
大川山を遙拝するなら、どうして山頂に寺院は建てられなかったの?
 大川山が聖なる山で、中寺廃寺はその遙拝所だったからです。
霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚があっても、山林寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、頂上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。
 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、生活不能な山頂に建てる必要はないのです。
 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀、
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。

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B地区 割拝殿と僧坊 ここからは大川山が仰ぎ見えます

Q3 古い密教法具の破片からは何が分かるの? 

 中寺廃寺跡からは、銅製の密教法具である錫杖や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。これらの法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。このことから寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。
 空海によって密教がもたらされる以前の非体系的な密教知識を「雑多な密教」という意味を込めて「雑密」と呼びます。その雑密の行者達の修行が、行われていたことを示します。
 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶がいました。空海も彼らの影響を受けて「大学」をドロップアウトして、その中に身を投じていきます。ここから出土した壊れた密教法具の破片は、厳しい自然環境の中、呪力修得に向け厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているように思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

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A地区 本堂と塔がある中寺廃寺の中枢地区です

中寺廃寺は、いつごろ存続した山林寺院なのですか

この寺院の活動期は次のような3期に分類されているようです。
  1 8世紀後半~9世紀  大川山信仰と修行場
 尾根の先端B地区において、行者たちの利用が始まります。。この時期には建物跡は確認できません。遺構が残らないような簡易施設で「山中修行場」として機能した時期で、B地区は遙拝書として機能していました。
  2 10世紀~  伽藍出現と維持期
谷の一番奥で標高が一番高いA地区に塔・仏堂が姿を現し、B地区では仏堂・僧房が、C地区おいて石組に遺構群が作られる時期です。この時期は、機能が異なるA・B・Cの3つの空間が愛並び、谷を囲んで向かい合う山林寺院として整った時期です。これには、讃岐国衙や国分寺も関わっているようです。
  3 12世紀以降 消滅期 
各地区から建物遺構が見られなくなる時期です。平安時代末期のこの時期に中寺廃寺は衰退・廃絶したと考えられます。
つまり、空海が活躍する9世紀後半以前から、ここは行場として修験者たちが活動する聖地になっていたようです。そして、平安時代が終わるに併せるかのように破棄され忘れ去られていきました。
国司として赴任した菅原道真は、この寺の存在を知っていたのですか?
 道真が着任した仁和2年(886)の夏のことです。
国府の北にある蓮池の蓮の花が真っ盛りでした。土地の長老が「この蓮は元慶(877 - 84年)以来葉ばかりで花が咲かなかったが、仁和の世になると、花も葉も元気になった」と云います。蓮は仏教ではシンボル花なので道真は「池の蓮花を採取して「部内二十八寺」に分捨する」ように提案すると、役人は喜んで香油なども加えて「東西供養」したといいます。[『菅家文草』巻4、262]。
「部内二十八寺」とは、讃岐の国衙が管理する寺28寺です。
ここから、9世後半の讃岐国には、28もの寺院が活動していたことが分かります。これは、考古学的に存在が確認されている白鳳期の讃岐の古代寺院の数と、ほぼ一致します。古代豪族によって白鳳期に建立された氏寺は、200年後にもほぼ存続していたようです。
 菅原道真が、讃岐国にある寺院数を知っていたのは、古代寺院が各国の国守の管轄下にあったからです。寺院に属する僧侶は、国家が直接管理した東大寺、下野薬師寺、筑前観世音寺に設けた三つの戒壇で受戒(合格し採用)した官僧であり、国家公務員でした。その動向や、彼らが居住する寺院の実態を、国守が把握するのは職務のひとつでもあったようです。
 菅原道真がカウントした「讃岐28ヶ寺」のなかに、この中寺廃寺が含まれているかどうかは、年代的に微妙なところです。9世紀後半は、中寺廃寺の本堂や塔が姿を見えるかどうかのラインのようです。
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A地区 本堂から塔跡の礎石を見下ろします
この寺の造営や維持管理に、讃岐国府は関わっていたのですか?
 繰り返しになりますが、古代律令国家においては、個人が出家し得度することは国家が承認しなければ認められませんでした。僧侶は国家公務員として、鎮護国家を祈願しました。祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会に参加します。一方で、僧は「清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」することが国家から求められのです。これが国家公務員としての僧侶の本分のひとつでした。
 9世紀後半の光仁・桓武政権は、僧侶の「浄行禅師による山林修行」を奨励します。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要なことであるとされていたのです
 国家は「僧侶が清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」するための施設整備を行うことになります。このような動きの中で10世紀になると、国衙の手によって山林寺院が整えられていくようになります。大川山信仰や行場としてスタートした中寺廃寺に、本堂や塔があらわれるのもこの時期です。
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僧侶は勝手に山岳修行を行うことはできなかったのですか?

 養老「僧尼令」禅行条は、官僧が修行のために山に入る場合の手続きについて、次のように規定しています。
1 地方の僧尼の場合は、国司・郡司を経て、太政官に申請し、許可を公文書でもらうこと。
2 その修行山居の場所を、国郡は把握しておくこと。勝手に他に移動してはならない。
 この条件さえ満たせば、官寺に属する僧侶でも山岳修行は可能でした。
また、修行と同時に「僧としての栄達の道」でもあったのです。ここで修行した「法力の高い高僧」が祈雨祈念などを行い、成功すれば権力の近くに進む道が開けたのです。
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山中に山寺を建立する理由は「山岳修行」だけですか? 

 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くに立地します。
古代山林寺院が国境近くに立地する例は、中寺廃寺以外にも、
比叡山延暦寺(山背・近江国境)
大知波峠廃寺(三河・遠江国境)
旧金剛寺  (摂津・丹波国境)などの数多く見られようです。
国境は、国衙が直接管理すべき場所でした。古代山林寺院の多くが、国境近くに立地するのは、国衙の国境管理機能と関連があるようです。

 さらに讃岐山脈の稜線を西に辿れば、
尾野瀬寺(旧仲南町) → 中蓮寺(旧財田町) → 雲辺寺(旧大野原町)
と阿讃山脈稜線沿いに山岳寺院が続きます。中寺廃寺は当時の行場ネットワークを通じて、他の山岳・山林寺院と結びついていたのかもしれません。これを後の四国霊場の原初的な姿とイメージすることもできます。

遺構や出土物からは、どんなことが分かるのですか?

 A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であるようです。ここにも造営に当たって讃岐国衙の「管理コントロール」が働いていたことがうかがえます。
また、塔心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。そのために赤みを強く帯びています。つまり、地鎮・鎮壇具として埋納するための須恵器は、国衙がこの寺用に作らせた特注品が使われているようです。
小説なら「空海、地元の中寺廃寺で修行する」というテーマで、讃岐にやって来た菅原道真の時代に割拝殿が作られることになり、それを国司である道真が「空海が若き日に修行した寺院」と伝え聞いて、特注制の陶磁器などの制作を命じて、空海由来の寺院として整えられていくたというストーリーが書けそうな材料はそろいます。

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また、B地区で出土した灰粕陶と見間違える多口瓶も、わざわざ播磨の工房に特注して作らせた可能性が高いようです。
 つまり、10世紀の中寺廃寺には、仏具として荘厳性の強い多口瓶を、わざわざ西播磨から取り寄る立場の僧侶がいたことになります。中寺廃寺は、単なる人里離れた山寺ではないことはここからも分かります。
この寺は讃岐国衙や讃岐国分寺とストレートに結びついていた寺院なのです。

参考文献
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集
加納裕之  空海の生きた時代の山林寺院「中寺廃寺跡」
                             
                          
                                    


国史跡 まんのう町の中寺廃寺 石組遺構は何のためにつくられたの?

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中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

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中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。
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あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

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後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。、
仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、
あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
にも見えます。 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していた例もあります。
 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として記載されているのが「石塔」です。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。
 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。
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 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けた累積結果と考えられるようです。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」であることです。
『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。
ここでは、祈りと宴会が行われていた? 

そう理解すると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。
 春の予祝行事である、その年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、あるいは山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣し、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていったと考えたくなります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。
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 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

 参考文献 上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集

まんのう町出身の国会議員 増田穣三伝

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 まんのう町出身の国会議員 増田穣三伝

塩入駅前の銅像は何者なの?        
増田穣三像の台座碑文について    
増田穣三評伝 1 塩入駅前の増田穣三像を見ながら
増田穣三評伝 2 まんのう町七箇春日と増田家   
増田穣三評伝 3 増田穣三の少年時代と教育歴について
増田穣三評伝 4 讃岐でも流行した阿波人形浄瑠璃と増田穣三
初代七箇村長 田岡泰は増田穣三と幼なじみ
香川県議会議員時代の増田穣三 
県会議員時代の増田穣三について      
財田村戸長 大久保之丞に学ぶ村の経営学
塩入街道 明治の東山越開通までの香川県側の動き
明治期 塩入街道の新道建設 第2の四国新道建設を目指して
増田穣三の同期代議士 三土忠造と白川友一について  
土讃線開通と増田穣三 
香川県七箇村出身の県会議員 増田一良について            
増田穣三と電力会社設立物語 (四国水力発電会社前史
増田穣三 浄瑠璃は玄人はだしの腕前     
華道未生流の一派 如松流が伝わるまんのう町佐文                      
まんのう町出身のもうひとりの国会議員 山下谷次     


増田穣三評伝 1 塩入駅前の増田穣三像を見ながら

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やってきたのは塩入駅  立っているのが増田穣三像

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いまは無人駅となり乗降客もめっきり少なくなった塩入駅。
その駅前の広場の東の隅の方にぽっつりと立っている銅像。
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近づいてよく眺めてみる。
なで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いている。
 私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。
政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。
政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じる。彼は若い頃は呉服屋の若旦那ででもあったようで着物姿が似合っている。ちなみにこの像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。増田穣三の意図を感じる。
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 増田穣三に関する資料や写真は、あまり残っていない。
 県議時代から春日の本宅を留守にして、高松で暮らすことが多かったようだ。穣三の死後は、増田家は高松に移っていたが高松空襲で消失し家財一切を失ったという。

下は県会議録等の数少ない「政治家としての増田穣三」の写真である。 
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「香川新報」は、県会議長を務めていた彼の風貌を次のように紹介している。 

「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
躰は小さいが、躰の釣り合いバランスはよく、ハンサムで動きはメリハリがあり、優雅な印象を与える。鼻の下の髭と、薄い髪がそれを補う。

  写真からもその雰囲気が伝わっている。
なぜ、政治家としての壮年期の姿を銅像にしなかったのか。
代議士引退後の姿を銅像としたのは、どうしてだろうか。
この銅像を見ながら疑問が膨らんできた。

台座碑文は、次のような文で閉じられている。
翁今年80にして康健壮者の如く 猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す。郷党の有志百謀って 翁の寿像を造り 以て不朽の功労に酬いんとす。余翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾 
     昭和12年5月  東京 梅園良正 撰書
ここから分かることは生前80歳の時に建立計画が建てられたこと。それを進めたのは、当時の七箇村長でもあり県会議員でもあった増田一良で、増田本家の当主であり、穣三の従兄弟にもあたる人物である。
 揮毫したのは宮内庁の書記官で、書道関係の出版物も多く、明治の著名人の碑文を数多く残している当時著名な書道家であった松園良正である。「余翁と姻戚の間に在る関係」から増田一良から揮毫を依頼されたようだ。 

再建されていた2つの銅像

 この銅像の台座碑文を調べていて、山下谷次の銅像と共通点があることに気づいた。年表を見ていただきたい。
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任(~昭和13年7月まで)
1936  昭和11年6月8日 山下谷次死亡
1937 昭和12年増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)→ S18年銅像供出 
1938 昭和13年9月山下谷次の銅像建立(村会の決議で)→S18年銅像供出
1939 昭和14年2月22日 増田穣三 高松で死去(82歳)七箇村村葬により葬られた。
1952 昭和27年6月5日  山下谷次像が17回忌に旧大口小学校に再建 
1963 昭和38年3月 増田穣三像が場所を変えて塩入駅前に再建
         ?          山下谷次像が旧仲南中学校正門上に移築

 昭和9年 増田一良が七箇村長になると銅像の「生前建立計画」が進められ、それに刺激されるかのように隣村の旧十郷村でも山下谷次像の建立が行われている。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により二つ共に姿を消すことになる。
 谷次の銅像は戦後の昭和27年、17回忌に元の位置に再建された。それから十年近く遅れて、増田穣三像も再建されたが建てられたのは塩入駅前に移された。その際に、台座は以前のものを使って再建されている。
 一方、山下谷次像は仲南中学の新設後に現在地に移築された。両銅像ともに、戦中を挟んで一度は姿を消した過去があるようだ。S38年に三豊市山本町辻の原鋳造所で再建された増田穣三像。その前に立つのは穣三の長男増田収平氏の写真が残っている。
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増田穣三像の台座碑文に刻まれた略歴は?(仲南町誌1319P掲載分より) 

 塩入駅前の増田穣三像の台座碑文は、三面にわたりびっしりと刻まれている。しかし、建立から80年経ち摩耗部分もあり読み取りにくい。苦労していると「仲南町史に全文が載っとるで」と教えてくれる先達がいた。仲南町史を開いてみると確かにあった。
長くなるが全文を紹介したい。(現代文に意訳)
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
七箇村春日の生まれで、増田伝二郎の長男。秋峰と号す。
安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生れた。伝次郎長広の長男で母は、近石氏。初め喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰洗耳は譲三の号である。
幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に就いて和漢の学を修め、また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究め遂にその流派「如松斉流」の家元を継承し多くの門下生を育てた。明治23年に、開設された村会議員となり、明治31年には2代村長に推され、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。明治33年には、香川県会議員に挙げられ以後、当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 

碑文から分かる経歴のポイントを押さえておこう。

 安政元年(1858 8月15日)生ということは、明治維新を10歳前後で迎えた世代ということになる。昭和14年(1939年)82歳で没ということは、太平洋戦争開戦前には亡くなっている。生まれはまんのう町(旧七箇村)春日。
明治23年 村会議員と為り(33歳)
  31年 村長に推され又(41歳)
  33年 香川県会議員に挙げられ(43歳)
   参事会員 副議長 議長等に進展して能く其職務を全うす 
  45年 衆議院議員に挙げられ(55歳)
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政治家としては30歳代で村会 
40歳代で村長兼県会議員 
そして50半ばで国会へという歩みのようだ。
これだけを押さえて次は、増田穣三の生家のある春日に向かってみよう。
 

讃岐でも流行した阿波人形浄瑠璃

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浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ
「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」

と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。
人形浄瑠璃という形で、阿波から伝わった新しい「文化伝播」を吸収した成果なのだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中から見ていきたい。
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 明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

  明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。

 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。 

人形一座は、三好郡昼間からやってきた。

昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。

 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、

徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。これを背景に秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。
 三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしていただろう。祭りの後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。そして、塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まる。しかし、人形浄瑠璃をやるには人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  
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塩入の山戸神社拝殿 人形浄瑠璃の舞台として使用

明治中期 七箇村で広がる農村歌舞伎

 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。 
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)

 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
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  増田本家のふすまに張られた一良使用の浄瑠璃床本

人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。

   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。
さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」
 
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穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。
 峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。 

  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも1 目置かれる存在に成長していった。

増田穣三評伝 5 七箇村議会開設と増田穣三

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明治23年 七箇村議会開設と増田穣三

 増田穣三に関しての資料は少ない。日記や手紙・私信等は戦争末期の高松大空襲の際に居住していた家屋が焼け、ほとんど残っていない。写真類も少ない。いわゆる「根本資料」がない。そのため周辺部から埋めていき人物を浮かび上がらせるという手法をとらざるえない。
 そんな中で「まんのう町役場仲南支所に古い議会録が残っており、その中に明治期の七箇村のものがある」と教えられた。閲覧を申し出ると、閲覧以外に写真撮影の許可もいただくことができた。
 この「七箇村村会議事録」を資料として、村会設立当時のまんのう町の情勢や行政課題、それに当時の指導者がどう向き合ったのかを見ていきたい。資料は明治23年から明治34年まで、穣三が村長を務めたいた時期も含めての議事録が(1部欠けている年度もあるが)5冊にわたって綴じ込まれている。

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 議事録は明治23年4月7日に始まる。この年は前年に大日本帝国憲法が施行され,地方行政においても町村制が実施され、各村々に村議会が開設されることになった年でもある。
 ちなみにこの年は、譲三の華道師匠園田如松斉の七回忌でもあり、その顕彰碑が建てられた年であることは述べた。村会議員に選ばれ、同時に未生流の師範の地位を固めた年でもあった。穣三33歳の時である。まんのう町の議会政治の幕開けと、その「議事事始め風景」を見てみよう。


明治23年4月7日 七箇村村会義のメンバー11人は?

 

 最初に11人の議員の番号と名前が議長により確認される。
議員番号1番の増田傳吾は、増田本家の当主で穣三の叔父に当たる人物で、村長決定までの仮の議長を務めている。8番の増田喜与三郎と記されているのが穣三である。彼は、30代半ばまではこの名前を使っており、後に穣三と改名する。7番の田岡泰は、増田穣三と同年生まれの幼なじみで、未生流華道の園田如松斉の下に共に通った仲でもある。ちなみに、この中には春日の増田一門につながる議員が3名含まれている。
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  最初に「村会運営細則」が議長の進行で1条ずつ審議され、挙手や起立や拍手による賛意表明ではなくひとりひとりを議長が指名し、賛否表明を求め賛成多数を確認後に決して行くという形で進められる。ちなみに成立した「運営細則」は次のような物であった。
第1条 会議の時間は午前10時に始まり、午後4時に終わる。ただし議長意見を以て伸縮することあるべし。
第2条 議員の席順はあらかじめ抽選にてこれを決めておく。
第3条 議場においては議員の姓名を呼ばず、その議員番号をもちうること。
第4条 議案は議員召集の際にあらかじめ伝えること。ただし場合により本条が適応できないこともある
第5条 議長は書記に提出議案等を朗読させる。
    (途中破損)     
第9条 議論饒舌になり無用の説と認められるときには、議長がこれを制すことが出来る。
第11条会議中は議員相互の私語することは禁止。                                                      (以下破損により読み取り不能)
第13条 議員病気又は事故で欠席する場合は、書面を提出すること。ただ、本条の届書は保証人として最寄りの議員の連名が必要である。
第14条 この細則に違反し、正当な理由なくして欠席又は遅刻する者は議論の上2円以下の過怠金を課することができる。
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村長と助役選挙の結果が知事に次のように報告されている。  

七箇村村長及び助役選挙のため4月7日、七箇村大字七箇において村会議を開き、議長に増田伝蔵、立会人に近石植次郎を選任し、村長選挙を実施した。
投票総数は12票
11点 田岡泰
1点  増田穣三
続いて助役投票を行った。開封の結果は次の通り
8点  矢野熊五郎
4点  増田穣三
以上の投票数の多数を比較し田岡泰を村長当選者、矢野龜五郎を助役当選者と決定した。投票終了後に再度投票用紙等を確認し、選挙事務を終了し閉会とした。選挙の結果を記録し議員の面前でこれを朗読後に、2名の議員によって確認しながら清書をした。
以上 署名押印 議長 増田伝吾 近石桂次郎
  増田穣三(当時は喜与三郎)が次点に挙げられている。

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しかし、村長に当選したのは幼なじみの田岡泰であった。

増田穣三の幼なじみの田岡泰について 知事への選挙結果報告書には、田岡泰の自筆履歴書が添えられている。これを見ながらその人となりを見ていこう。
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田岡 泰 七箇村初代村長                                            
安政5年(1858) 9月8日 ~ 大正15年(1926)10月10日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、明治元年から明治4年まで三野郡上麻村の森啓吾に従って漢学を学び、
明治5年から明治7年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治8年から1 年間県立成章学校(後の香川師範学校)に入学して普通学を修め、
明治10年から1年間大阪の藤沢南岳に師事して儒学を修めて帰郷した。(20歳?)
明治12年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視、
明治13年高篠学校の教員を勤め、
明治18年~明治21年まで那珂、多度併合会議員に選ばれた。
明治22年3月には榎井村養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講。
 明治19年1月居村窮民為救助白米を施与したことにつき賞せられる。賞状は別途の通り
 罰 刑罰なし 以上の通り相違なし。
 香川県那珂郡七箇村大字七箇村 平民 田岡泰
この履歴書に加えて、仲南町誌には以下の内容が加えられている
明治23年4月1 日から明治31年まで七箇村の初代村長に選ばれた。
明治31年4月25日から明治32年3月7日まで県会議員、
明治32年9月30日から明治36年9月29日まで郡会議員を勤めた。この間、七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治33年10月には、営業前の西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(県道4号線)の基をつくった。
後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。

春日のお寺の墓地で、田岡泰の墓を見つけた。

この墓に漢文で刻まれた碑文も村長就任時の履歴書がベースになっているようだ。この履歴書からは、興味深いことがいくつか分かる。
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まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅生まれの幼なじみになる。
同じ春日に、生まれた二人の生き方は、この後、互いに交わりながら人生の糸を紡いでいく。 
田岡泰の墓碑には、穣三の碑文にはなかった次のような教育歴が載せられている。
上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) → 高松の黒木茂矩(皇漢学) → 香川師範学校(普通学) → 大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  彼も幼年期には、馬背峠を越え佐文を抜けて上麻までの道のりを勉学のために通っていたことになる。続いて高松在住でまんのう町出身の黒木茂矩について皇漢学を学び、その上で師範教育を受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、隣村財田村の大久保之丞を見習ったような経歴もある。
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田岡泰の墓碑

 地域にとっては、近代教育を受けた頼りになる若きリーダーとして地歩を固めていった。明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で、初めての村会議員選出が行われる。選出された議員の中に33歳の田岡泰と増田穣三がいる。そして、議員互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
なぜ初代村長は増田穣三でなく田岡泰だったのか。
 当時の増田穣三は「お花の先生」「浄瑠璃の太夫」「書道家」というに風流人としての「粋さ」を身につけた「増田家分家の若旦那」という印象を周囲からもたれていたのではないかと書いた。対して田岡泰は「師範学校出身の先生」「養蚕技術の導入者」として頼りになる村のリーダーというイメージがあったのではないか。行き過ぎた推論かもしれないが、こんな人物評が田岡泰を初代村長に推した背景ではないだろうか。 

 助役に就任するのが矢野龜五郎

 亀五郎は、増田穣三よりも20歳年上で、明治維新後の七箇・塩入村戸長となり、その後22年間村政の舵取り役を務めている。そして、次世代の若きリーダーとして田岡泰・増田穣三を育成し、明治23年に新役場が開かれると、田岡泰を村長に据えて自分は助役に就任。さらに4年後には、助役も退き増田穣三にバトンタッチ。次世代への引継ぎを円滑に行って勇退している。彼も春日出身である。春日の七箇村での優位性指導性と共に人脈の豊富さを感じさせる。春日の若きリーダーによって「村の明治維新」は、姿を整えられていく。
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   なお、亀五郎の養子である晃は、戦後に多度津国民学校校長依願退職後に、増田一良の後を受けて第10代七箇村村長に就いている。



増田穣三評伝 目次 2019版

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増田穣三評伝 1 塩入駅前の増田穣三像を見ながら
増田穣三評伝 2 まんのう町七箇春日と増田家   
増田穣三評伝 3 増田穣三の少年時代と教育歴について
増田穣三評伝 4 讃岐でも流行した阿波人形浄瑠璃と増田穣三
増田穣三評伝 5 七箇村議会開設と増田穣三
増田穣三評伝 6 財田村の大久保之丞に学ぶ村の経営学
増田穣三評伝 7 塩入新道の建設 第2の四国新道建設を目指して
増田穣三評伝 8 明治の東山越開通までの七箇村の動き
増田穣三評伝 9 県議会議員時代の増田穣三 
増田穣三評伝10 増田穣三と電力会社設立物語(四国水力発電会社前史
増田穣三評伝11 同期代議士 三土忠造と白川友一について  
増田穣三評伝12 土讃線開通と増田穣三 
増田穣三評伝13 大久保彦三郎と穣三の従兄弟増田一良について            
増田穣三評伝15 穣三が家元だった華道如松流が伝わるまんのう町佐文
増田穣三評伝16 まんのう町出身のもうひとりの国会議員 山下谷次     

塩入駅前の銅像は何者なの?        
増田穣三像の台座碑文について    

 縁あって郷土から出た戦前の衆議院議員との出会いがあった。
何の知識もない中で、銅像や碑文を訪ね、町誌を読み、関係者から話を聞く機会を頂いた。
その中から、おぼろげながらも次第に増田穣三の姿が見えてくるようになった。
法然堂の未生流師匠碑文の裏面のトップに増田穣三の名前を見つけた時は驚いた。
農村歌舞伎の太夫として浄瑠璃を詠い、玄人はだしでであった

塩入線誘致を行い「土讃線のルート決定」に大きな影響を与えたという従来の評価については調べれば調べるほど疑念がわいてきた。今までの増田穣三への評価を貶めることになるのではないか。これでいいのかという迷い。
いいのだ、まんのう町の讃岐山脈のふもとで幕末に生まれた男が、明治・大正と云う時代を郷里の課題に向き合いながらどう生きたのか、それをあるがままに記録することがまんのう町の未来への遺産となるのだと、そんな風に思い直し、行きつ戻りつしながら調べたものを書き並べた。
その「成果」がここにあげたものです。
この「出会い」をいただいたことに感謝

琴平以南に電灯が点ったのは百年前 そこには増田穣三・一良の姿が・・

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琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか?

今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に伸びます。この追風を受けて、電力会社は電源の開発と送電網の拡大を積極的に進めます。その結果、電気事業はますます膨大な資本を必要とするようになります。第一次大戦前の大正6年頃までは産業投資額は、鉄道業・銀行業・電気事業の順でしたが,大戦後の大正14年には銀行業を追い抜いてトップに躍り出て、花形産業へ成長していきます。

 増田穣三に代わって景山甚右衛門が率いる四国水力電気は、

積極的な電源開発を進めます。吉野川沿いに水力発電所を建設しするだけでなく、徳島の他社の発電所を吸収合併し、高圧鉄塔網を建設し讃岐へと引いてくることに成功します。その結果、供給に必要な電力量を越える発電能力を持つようになります。余剰電力を背景に高松市などでは、料金値引合戦を展開して競合する高松電灯と激しく市場争いを演じるます。

しかし、目を農村部に向けると様相は変わっていました。

 四水は琴平より南への電柱の架設工事は行わなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、設立時に認められていた営業エリアの関係です。
四水の前身である讃岐電灯が認可された営業エリアは、鉄道の沿線沿いで、東は高松、南は琴平まででした。そのため四水は、琴平より南での営業は行えなかったのです。
 そこで、四水から余剰電力を買い入れ、四水の営業認可外のエリアで電力事業を行おうとする人たちが郡部に現れます。四水も「余剰電力の活用」に困っていましたので、新設される郡部の電力会社に電力を売電供給する道を選びました。こうして、県下には中小の電気事業者が数多く生まれます。この時期に設立された電力会社を営業開始順に表にしてみると、次のようになります。
高松電気軌道 明治45年4月  高松市の一部、三木町の一部
東讃電気軌道 大正 元年9月 
大川電灯   大正 5年3月  大川郡の大内町・津田町・志度町・大川町
岡田電灯   大正 9年    飯山町・琴南町・綾上町
西讃電気   大正11年    多度津町と善通寺市の一部
飯野電灯   大正11年    丸亀市の南部
讃岐電気   大正12年    塩江町
塩入水力電気 大正12年4月  仲南町・財田町の一部
 この内、西讃電気、東讃電気軌道、高松電気軌道は自社の火力発電所をもっていましたがその他の電気事業者は発電所を持たない四国水力電気からの「買電」による営業でした。

 このような動きを当時県会議員を務めていた増田一良は、当然知っていたはずです。電灯の灯っていない琴平以南の十郷・七箇村と財田村に、電気を引くという彼の事業熱が沸いてきたはずです。相談するのは、従兄弟の増田穣三。穣三は当時は代議士を引退し、高松で生活しながらも、春日の家に時折は帰り「華道家元」として門下生達の指導を行っていたはずです。そんな穣三を兄のように慕う一良は、隣の分家に穣三の姿を見つけるとよく訪問しました。ふたりで浄瑠璃や尺八などを楽しむ一方、一良は穣三にいろいろなことを相談した。
 その中に、電気会社創業の話もでてきたはずです。穣三は、かつて四水の前身である讃岐電灯の社長も務め、景山甚右衛門とも旧知の関係でした。話は、とんとん拍子に進んだのではないでしょうか。

  仲南町誌には、この当たりの事情を次のように紹介しています。
大正10年 増田穣三、増田一良たち26名が発起人となり、大阪の電気工業社長藤川清三の協力を得て、塩入水力電気株式会社を設立。当初釜ケ渕に水力発電所を設設する予定で測量にかかった。しかし資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換した。買田に事務所兼受電所を設置。七箇村、十郷村、財田村、河内村を配電区域として工事を進めた。
「資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換」と書かれていますが、すでに四水からの「受電」方式を採用した電気会社がいくつか先行して営業を行っていました。「自前での水力発電所の建設を検討した」というのは、どうも疑問が残ります。
 また、「水力発電所」建設にかかる巨額費用を穣三は、「前讃岐電灯社長」としての経験から熟知していたはずです。当初から「受電」方式でいく事になっていたのではないでしょうか。にもかかわらず社名をあえて、「塩入水力電気株式会社」と名付けているところが「穣三・一良」のコンビらしいところです。

 1923(大正12)4月 七箇・十郷村にはじめて電燈が灯ります。

 設立された塩入水力電気株式会社は、資本金10万円で多度津に本店を置き、四国水力電気より電気を買い入れ、買田に配電所を設けて供給しました。家庭用の夜間電灯用として営業は夜だけです。営業エリアは、当初は七箇・十郷・財田・河内の4ケ村で、総電灯数は約1000燈(大正12年4月24日 香川新報)でした。
 旧仲南町の買田、宮田、追上、大口、後山、帆山、福良見、小池、春日の街道沿いに建てられた幹線電柱沿いの家庭のみへ通電でした。そして財田方面へ電線が架設され、四国新道沿いに財田を経て旧山本町河内まで、伸びていきます。供給ラインを示すと
 買田配電所 → 樅の木峠 → 黒川 → 戸川(ここまでは五㎜銅線)→ 雄子尾 → 久保ノ下 → 宮坂 → 本篠口 → 長野口 → 泉平 → 入樋 → 裏谷 → 河内(六㎜鉄線)へと本線が延びていました。 
これ以外の区域や幹線からの引き込み線が必要な家庭は、第2次追加工事で通電が開始されました。
そして、同年10月には1500灯に増加し、翌年(大正13年)3月末には、約2000燈とその契約数を順調に伸ばしていきます。
  春日の穣三の家は、里道改修で車馬が通行可能になった塩入街道沿いにあり、日本酒「春日正宗」醸造元でもありました。この店舗にも電線が引き込まれ、通電の夜には灯りが点ったことでしょう。電気会社の筆頭株主は増田一良であり、社長も務めました。穣三は点灯式を、どこで迎えたのでしょうか。華やかな通電式典に「前代議士」として出席していたのか、それとも春日の自宅で、電灯が点るのを待ったのでしょうか。
 かつて、助役時代に中讃地区へ電灯を点らせるために電力会社を設立し、有力者に株式購入を求めたこと、社長として営業開始に持ち込んだが利益が上がらず無配当状態が続いたこと、その会社が今では優良企業に成長していること等、穣三の胸にはいろいろな思いが浮かんできたことでしょう。
 あのときの苦労は無駄ではなかった、形はかわれどもこのような形で故郷に電気を灯すことになったと思ったかもしれません 

家庭に灯った電灯は、どんなものだったのでしょうか?

仲南町誌は次のように伝えます。 
ほとんどの家が電球1個(1ヵ月料金80銭)の契約だった。2燈以上の電燈を契約していたのは、学校、役場、駅などの公共建物や大きい商店、工場と、ごく一部の大邸宅だけであった。
 また、点燈時間は日没時から日の出までの夜間のみであった。
一個の電燈で照明の需要をみたすために、コードを長くしてあちらこちらへ電球を引張り廻ったものである。婚礼や法事などで特に必要なとぎには、電気会社へ要請して、臨時燈をつけてもらった。
二股ソケットで電灯を余分につけたり、10燭光契約で大きい電球をつけるなどの盗電をする者もたまにあったようで、盗電摘発のために年に何回か、不定期に不意うちの盗電検査が夜間突如として、襲いきたものであった。
「盗電検査」があったというのがおもしろいです。

 ちなみに1925(大正14)年10月ごろに塩入電気が、四水から受電していた電力は60㌗アワーでした。最初は、電気は単に照明用として夜間だけ利用されていましたが、終戦後に使用の簡便なモーターが普及するようになります。財田缶詰会社などの要請で電気が昼夜とも配電されるようになったのは、戦後の1946(昭和21)年5月でした。この時同時に、塩入地区へも電気が導入されたようです。

香川県で最初に汽車を走らせた讃岐鉄道

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 香川県で最初に汽車が走ったのはどこ?

 多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。
 
 明治 18 年(1885 年)、多度津~神戸間の定期航路の船主であった神戸の三城弥七と、多度津の豪商大隅屋の五代目景山甚右衛門が中心になって、具体的な構想が公表されます。当時は全国各地で鉄道敷設の機運が高まるなかで、明治20(1887)年5月24日に「讃岐鉄道会社」設立の申請が、内閣総理大臣・伊藤博文に提出されています。それによると
  『讃岐鉄道起業目論見書』(現代文に意訳))
1 名称は讃岐鉄道会社して、愛媛県下の丸亀通町103番地に設置する
2 線路は丸亀を起点に、中府村、津ノ森、今津、下金倉、多度郡北鴨、  道福寺、多度津庄、葛原、金蔵寺、稲木、上吉田、生野、大麻を経   て那珂郡琴平村に至る。
(第3、4 省略)
5 発起人の氏名住処及び発起人引受ノ株数(省略)は次の通り
 ・川口 正衛 大阪府下東区横堀壱丁目十九番地 讃岐国那珂郡丸亀通町百三番地寄留
 ・谷崎新五郎 大阪府下西区薩摩堀南九番地   同国同郡同処寄留
 ・辻 宗兵衛 大阪府下東区本町壱丁目四番地  同国同郡同処寄留
 ・近渾 弥助 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀松屋町拾四番地
 ・太田 岩造 同県同国同郡宗古町八四番地
 ・金子 数平 同県同国同郡敗町三拾弐番地
 ・氏家喜兵衛 同県同国同郡中府村四百九拾四番地
 ・島居貞兵衛 同県同国同郡地方村四百三拾九番地
 ・冨羽 政吉 同県同国同郡演町拾三番地
 ・景山甚右衛門 同県同国多度郡多度津村百三拾八番地
 ・丸尾 熊造 同県同国同郡同村四拾六番地
 ・大久保正史 同県同国同郡同村九百五九番地
 ・仁井粂吉郎 同県同国那珂郡琴平村弐百拾六番地
 ・福岡清五郎 同県同国同郡同村百八拾四番地
  二奸喜三郎 同県同国同郡同村六百弐拾弐番地
 ・大久保之丞 同県同国三野郡財田上ノ村百三拾三番地
発起人引受株金は 株式三百株 金高三万円也  合計金 15万円也
                 (「鉄道院文書」 讃岐鉄道の部
この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです

この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
順調な滑り出しのようです。しかし、ここからが大変だったようです。地元の人たちの強硬な抗議に合うのです。真っ向から反対したのは旅館と土産物などを商う商売人であり、次に人力車夫やたちでした。

鉄道建設に、地元はどうして反対したのでしょうか

その反対理由は、 明治二十年八月十日付けの『東京日日新聞』の記事(意訳)を読むと分かります
全国各地からの金刀比羅神社へ参詣者は、たいていは金刀比羅町に一泊するか、昼食をとっていた。また、土産物等を買い整へるなど、同町は参詣人の落とすお金で非常に賑わっていた。ところが大久保之丞によって四国新道が開通し、人力車で丸亀・多度津から一日で往復することができるようになって以来は、兎角客足が止まらず、同町の商売人、旅人宿等は大不景気に見舞われている。その上に、鉄道が出来れば、同町はたちまち衰微していくかもしれないという不安が高まっている。このため同町の住民一同は、鉄道会社の株主などにならないのは勿論のこと、鉄道の敷地にも一寸の土地といえども決して売り渡さず、飽くまで反対・妨害しようと協議中なりと伝えられる。
  参拝客の利便性向上よりも、自分たちの利益優先というのはこの時代にも見られるようです。鉄道に反対したのは琴平の人たちばかりではなく、門前町善通寺や、港町多度津も同じような雰囲気だったようです。新しい鉄道会社が周りの温かい支援を受けて生まれたとは言えません。  

最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした。

 この時代に発行された『こんぴら参り道中安全』という旅行ガイドブックには、丸亀・多度津港に上陸した参拝客が人力車を利用する際に、次のような警告文が載せられています。 
丸亀、多度津の港から琴平までの運賃は片道 15 銭、上下(往復のこと)25 銭である。そして雨の火とか夜中は 3 銭の割増しを必要とする。が、車夫のなかには、酒手・わらじ代・蝋燭代等を客に強要するくせの悪い者も相当いるから用心すべし。万一、こうした不心得者にあった場合は宿屋に申し出るように・
 急速に人力車が普及し、金比羅詣でに利用する人たちが増えていることが分かります。鉄道開通一年後の明治 23 年の高松市の記録によると、高松市内だけで「人力車営業人 420 名、車夫 603 名、車両台数 641 台」とあります。香川県全体では何千台の人力車があったようです。こんな中で、鉄道会社の計画が聞こえてきたのですから、車夫や馬方連中が「メシの喰い上げだ!」とさわぎだしすのも分かるような気がします。
 地元多度津では、「汽車が走ると飯の喰い上げだ」と、景山宅へ押し掛け「焼き払ってやる」と意気巻く一幕もありました。「景山コレラで死ねばよい・・」こんな歌も流行ったようです。
 そのため、工事現場の陣頭指揮にあたった景山氏は、常に用心棒を連れ、腰に銃剣を釣るして、巻脚絆に地下足袋姿で臨んだと伝わります。 まさに、彼にとっては建設は生命がけの工事であったのかもしれません。結局、鉄道開通後に人力車夫や馬方を路線工夫に採用するという案も出して問題の解決を図っています。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収や工事です。
 認可を受けて2ヶ月後の明治21年4月10日に琴平村下川原で起工式が行われています。そして、突貫工事で翌年の3 月8日には多度津~琴平間を、14 日には多度津~丸亀間の工事を完成させます。わずか1年間という短期間で工事を完成させることができたのは、用地買収がスムーズに進んだことが挙げられます。それはなぜでしょうか?
 それは、琴平から多度津の線路用地が「旧四条川」の川原で、田畑でなかったためだと丸亀市史は云います。土讃線と四国新道(現国道319号)は、江戸時代初期に人工河川の金倉川へ付け替えた旧四条川の旧道跡で耕作に適さないところを買収している。この時代まで田畑となっていなかったために用地買収がスムーズに進んだというのです。 

もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。

 さて讃岐鉄道の機関車は、どこからやってきたのでしょうか。
もちろんこの時代には、国産制はありません。先進国から輸入するしかないのです。讃岐鐡道の蒸気機関車はドイツ製です。
会社は、開業日を明治 22年(1889 年)の4月1日と決めます。そしてB 型タンク機関車3両、車31両、貨車12両をドイツ帝国のホーヘンツォレルン社(Hohenzollern)に発注します。
 ところが、機関車や客車・貨車を乗せたドイツからの船便がなかなか多度津の港に姿を見せません。 会社の幹部達は、海の彼方から機関車等を積んだ船が現れるのを、今日か明日かと待ちわびます。ようやく、船が到着したのが3月15日。当初の開業予定日には間に合いません。
 それから箱詰めの機関車や客車、部品の積み下ろし作業が始まり、器械場で組み立て作業に移ります。昼夜兼行の作業で、4月末には組立工事が完了し、5月始めから全線で連日試運転が繰り返されました。結局、開業日は5月23日とされ、約2ケ月遅れとなりました。
当日の23日には、四国初めての汽車が、多度津駅をあとに琴平駅へ向かって黒煙を吹きあげ勇ましく動き出したのです。  
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
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動輪が2 つの小さなタンク機関車で、当時のヨーロッパ諸国では駅構内の客車や貨車の入れ換え専用に使われていたものでした。
「機関車トーマス」よりも小さくて可愛い機関車だったのです。
讃岐鉄道は8年後の明治30年(1897年)、路線の高松までの延長に伴い、新たな機関車の導入が必要になります。このときも開業時と同じ機関車を10両発注しようとして、ドイツのホーエンツォレルン社に問い合わせています。同社では重役達が「入れ換え専用の機関車を一度に 10両も発注する“讃岐鐡道”は大会社に違いない。ついでに本線用の大型機関車も購入して頂きたい。」と、数名の技師とともに営業担当者も派遣してきました。
 ところが・・??  
多度津港へ上陸してみると、ドイツ人の技師達は我が目を疑って立ち尽くします。街も小さければ、鉄道も小さく、入れ換え用の小さな機関車が本線で列車を引っ張って走っているではありませんか・・。  もちろん、大型機関車の契約は一両も取れなかったことは云うまでもありません。それが19世紀末の日本という国の姿だったのです。
機関車メーカのホーエンツォレルン社は北ドイツのデュッセルドル(Düsseldorf)にある会社。デュッセルドルフは、ライン河に面する美しい街だそうです。
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 導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車

 開通式典での大久保之丞の祝辞は? 

 明治22年(1889)五月二十三日、讃岐鉄道は晴れて開業の運びとなりました。開業の式典は多度津・丸亀・琴平の三か所、祝賀式典は琴平の虎屋旅館で行われました。多度津駅構内での式典に参列したのが発起人の一人、大久保之丞です。彼は次のように祝辞をのべ、最後に「瀬戸大橋架橋構想」を披露します。(意訳)
「今後は、この讃岐鉄道を高松に向けて延長させ、阿讃国境の山を貫いて吉野川の沿岸に線路を敷きき、徳島・高知に至る。
もう一方は、ここから西へ向かい伊予の山川を貫き、土佐の西部を巡り、高知にたどり着く。そうして四国一巡できるようになれば、人も貨物も増加し運送便も増えることは必定である。この時には、塩飽諸島を橋台そして山陽鉄道に架橋連結して、風波の心配なく(中略)
まさに南来北行東奔西走、瞬時を費せず、国利民福これより大きな事はない。(後略)」
と「大風呂敷」を広げるのです。それは人々の夢として語られ続けます。

開通式当日の人々の熱狂ぶりは・・・ 

 開通式典は、琴平の虎屋旅館で開催されましたが参列者には無賃の乗車券が案内状に同封されました。煙火(花火)50 発が初夏の空に打ち上げられ、沿線には見物客が詰めかけます。処女列車には、多度津小学校の児童20人が招かれました。陸蒸気への乗り方がわからず、下駄を脱いだり、窓から入ったりと大騒ぎだったといいます。
  ハイカラの英国式帽子に洋服姿の車掌が笛を吹くと黒煙を吹きあげて陸蒸気は小さいマッチ箱の客車や貨車を引っ張り動き始めます。
満載の試乗客を喜ばせ、見守る人たちは目をみはりました。

汽車に乗れない人々も「今日は仕事休んで陸蒸気見にいかんか。」と朝から晩まで、遠方から弁当持参で汽車場(駅)や沿線へ見物人が殺到して、待合所を見たり、路線や駅員の動作までじーっと見つめます。汽車が着きかけると、ワァッと駅へ押し寄せて来て乗り降りする人を不思議そうに見ます。子供は沿線を駆け競べ、道通る人は立ち止まり、家の中から飛び出し、遠くの者は仕事をやめて駆け寄ります。だれもが初めて見る陸蒸気に見入るばかりでした。まさに、目に見える形で明治(近代文化)が四国にやってきたのです。大きなカルチャーショックだったでしょう。 
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多度津駅構内の小さな機関車とマッチ箱の客車

  開業当時の讃岐鉄道は、

社長の三城弥七(明治 24 年 3 月まで在職)以下77名の人員で、車両は例のドイツ製の可愛い機関車三両、客車三一両、貨車て11両で客車は「マッチ箱」と呼ばれた定員二〇人の小型なもので、四両編成の客貨混合列車で運転されました。
 停車場は丸亀・多度津・吉田(同年六月十五日から「善通寺」と改称)と琴平の四か所で、丸亀から琴平行きが「上り」、反対に琴平から多度津・丸亀行きは「下り」で、現在とは逆でした。金刀比羅宮への参拝が「上り」なのです。ここにも「讃岐鉄道」が「参宮鉄道」であったこと示しています。
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明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

本社は桜川の横、現在の多度津町民会館(サクラート多度津)の場所にありました。桜川に向かって西向きの二階建てで、一階が多度津駅、二階が本社でした。開業時の琴平駅は現在地ではなく神明町(今の琴平ロイヤルホテル・琴参閣付近)にありました。
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開業当時の多度津駅
当時の運行時刻表によると
琴平-善通寺は10分、
善通寺-多度津は15分、
多度津-丸亀10分、
これに待合時間などを加えて上りが片道48分、下りが50分で、一日8往復に運行ダイヤでした。
運行運賃は?
上等・中等・下等の三段階に区分されていました。
丸亀-琴平間は上等33銭、中等22銭、下等11銭、
そのころの白米1升の値段は3銭でした。
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高松延長後の当時の駅長達
 
讃岐鉄道は、開業から8年後の明治三十年(一八九七)二月二十一日に丸亀-高松間を延長開業します。それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
「上等のお客さまはそのままご乗車を。 中等のお客様は降りてお歩きを。 下等のお客様は降りて車の後を押して下さい。」

約90年前の日本の姿です。こんな姿を経ながら現在の日本があります。
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明治29年 高松延長に伴う土器川鉄橋工事現場 背後は寺町?

【参考資料】  「国鉄多度津工場 100 年史」

土讃線の琴平・讃岐財田間の開業について

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土讃線が琴平から讃岐財田駅まで伸びたのはいつ? 

1889明治22年5月21日に、丸亀・琴平を結ぶ讃岐鉄道が開通します。多度津駅構内での式典に参列した大久保之丞は祝辞を述べ「鉄道四国循環と瀬戸大橋架橋構想」を披露します。そして、8年後には高松へと線路は延びていきます。
 しかし、琴平から南へ線路は伸びていくのは約30年後の大正年間になってからです。まずは、琴平ー讃岐財田間が始まります。そして、それが猪ノ鼻トンネルを越えて池田へとつながり、さらに大歩危の渓谷を越えて土佐とつながっていきます。それは昭和の初めのことになります。土讃線の進捗状況をまずは年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 琴平-土佐山田間の路線決定
1919 9月 実測開始 
1920 2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」に免許状の交付。
      しかし第一次世界大戦の不況下で着工は大幅遅延
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1920 4月3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1929 昭和4年4月28日 財田-阿波池田間完成。
1935 11月28日 小歩危でつながり、高松・高知間が全通。


 路線決定から測量を経て、起工式が行われ着工するのが1920年4月3日でした。その日を間近に控えた琴平では、祝賀のための準備が進められています。当時の新聞は、次のように伝えています。
大正9年(1920年)3月29日付け 土讃鉄道起工決定せる余興と装飾プラン(意訳)
琴平町での土讃鉄道起工祝賀については、理事者を始め一般町民も含めて準備にいそしんでいる。宴会は1日午後1時より町立公会堂で開かれ、鉄道院総裁を始め朝野の有力者300名を招待している。そのための余興及町内の装飾は次のようなものが準備中である
一曰より三曰間煙花百発打揚げ
一曰より三曰間東西両券芸妓手踊
一曰は公会堂、二曰は琴平駅前に花相撲
一曰 昼小学生の国旗行列・夜提灯行列
三曰 本社支局主催のマラソン競争
一曰より三曰間 町内各戸丸金印入の旗を町内的に立て軒提灯を出す
前記の内祝賀宴会は晴雨に拘らず行ふも其他は雨天順延す
坂町の装飾は松の枝に短冊を附し軒下に吊す
内町は町の所に構造電気を作り夫れに千燭光の電燈を点す
小松町は町内軒から軒へ万国旗を廻す
通町は上組は花の棚中組下組は花章
神明町も桜の花傘
金沢町は桜の腹這,
新町旭町は桜の大造花

 花火に・芸子の踊り・マラソン・国旗や提灯行列、そして街毎の趣向を凝らした飾り付けと、祝賀式を盛り上げようとするプログラムが目白押しです。そして、当日の起工式の様子は次のように奉じられています。
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開通記念行事 屋台と芸子さんのパレード?
 
大正9年(1920年)4月3日付け 起工祝賀会
美を尽くした土讃鉄道起工祝賀会は、春雨煙る琴平の名物呼物のマラソソ競争は三日に挙行 
琴平町は一日午後一時より町立公会堂にて土讃鉄道起工祝賀会が開かれた。公園入口は線門を設け「祝鉄道起工」の扁額を掲げ、公会堂前には高く万国旗を掲げ、その入口は丸金の旗を交叉し、堂内には無数の万国旗を蜘線手に吊り、沢原町長の式辞・来賓の祝辞があり、式は終了した。それより会場を琴平座に移し、宴に入り東西両券芸妓の手踊数番が舞われた。その後、散会したのは午後四時なりし。

 工事はどこを起点にスタートしたの?

 こうして4月3日に、工事は着工します。工事を請け負ったのは京都の西松組でした。工事は、どこから進められたのでしょうか?
着工から半年あまり経った進捗状況を次のように伝えています。
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三坂山踏切からの象頭山と土讃線

 大正九年(1920)10月13日付け 土讃線鉄道工事進捗 
土讃線の延長工事は、三坂山から七箇村帆山新駅までの一里半(約6㎞)の工事は、すでに八分程度は終わっている。三坂峠西端から琴平新駅構内までの工事も半分程度は終了している。工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。また、新駅から旧線の分岐点である大麻の工事は、来月下旬頃に着工予定である。
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土讃線の切通作業とトロッコによる土砂の運搬

 この記事からは「三坂山」が起点になっていることが分かります。ここを起点に線路の土盛り用の土砂を「トロッコや豆機関車」で、それぞれ東西に運んで線路を延ばしているようです。そして、新琴平駅から北の旧線路との分岐までは、この時点では未着工で、「来月下旬に着工予定」とされています。
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さて、それでは「三坂山」とはどこでしょうか?

三坂山は、琴平の東南の土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する辺りの南側にある小さい丘のような山です。すぐ東側を金倉川が流れています。ここは、丸亀平野の南端にもあたり、目の前には平野が広がり、かなたに讃岐富士(飯野山)が見通せる眺めのいい所です。
 現在、この山の裾を走る土讃線に立つと、この三坂山の先端を削って線路を通したことが分かります。その際に、削り取られた土砂が随時伸びていく線路を「トロッコや豆機関車」で運ばれたのです。 「一挙両得」の賢い工法です。
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着工から1年あまり経過した進捗状況を見てみましょう

大正10年(1921年)五月三〇日付け 土讃鉄道工事進捗、
土讃鉄道琴平・財田の5里の工事は、京都の西松組が請負って、昨年3月に起工し、この10月竣工予定である。鉄路の土盛と築堤及橋梁台は殆ど全部終えて、目下の所、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りしている。既に大部分埋立たてられており七月中には竣工予定である。
 また、塩入・財田間約四哩の土工も西松線が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷手押土運車を運転して土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である。
 ここからは「新琴平駅の土盛り作業」が行われていることが分かります。そう言えば、現在の琴平駅は、琴電琴平駅方面から見ると、道が緩やかに上がっています。これは、もともとの自然立地ではなく、この時に「土盛り」作業をして高くしたようです。その土は、三坂山の切通しから「豆機関車」で運ばれてきたものだったのです。

なぜ琴平駅は土盛りし、高くする必要があったのでしょうか?

 コトデンとの関係だったようです。
土讃線の着工前の1919年9月、高松の大西虎之助、多度津の景山甚右衛門、坂出の鎌田勝太郎ら県内の財界人によって高松-琴平間の「電気鉄道敷設免許申請=コトデン」が出され、翌年二月に免許状の交付されます。路線図を見ると、土讃線の新琴平駅とコトデン琴平駅の手前で両線がクロスすることになります。つまり、両線のどちらかを高架させる必要があったのです。そのために土讃線を土盛りして、その下にコトデンを通過させるという案が出されたのではないでしょうか。
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土讃線の下をくぐるコトデン電車 このために琴平駅から北は土盛りされた

その結果、土讃線の新琴平駅は土盛りして高くして、北から入線する線路を迎え入れる構造に設計されたと考えられます。
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「農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定」 

新聞記事の後半で、面白いのはこれです。確かに香川用水が確保される前は「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。当時の様子がよく分かります。

そして、工事開始から4年目の春、

琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。

大正12年(1923年)5月21日開業 琴平-財田開通記念間開業  土讃鉄道琴平財田間開通記念版 徳島へ=高知へ=一歩を進めた四国縦断鉄道
琴平・讃岐財田間は今日開通 香川・徳島の握手は大正十六年頃の予定。
 総工費百三十万円 土讃線琴平財田間8里は21日開通となった。この工事は大正9年3月に起工し、第1工区琴平・塩入間と大麻の分岐点から琴平新駅までは京都市西松組が25万余円で請負い10年6月に竣工。  また第2工区塩入・財田間も同組が四十三万円で請負い10年2月起工し11年年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設や琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の主任三原技手で、途中から佐藤技手に引き継がれた。
 新線は善通寺町大麻の大麻神社前の旧線分岐からスタートして、阿讃国道を横切って東進し、金倉川を横切って琴平山を右手に眺めつつ横瀬の橋上を走って、昨年11月に移転した榎井村の新琴平駅へ到着する。
 この新駅は平屋建てであるが米国式洋風の建物で工費は13万円。これは新線総工賃の1割に当たる。まさに関西以西においてはまれに見る建物である。琴平駅の跨線橋はこの4月に工賃2万円で竣工した。
 
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旧線の分岐点となった大麻神社前の踏切です。それまでは右傾斜していたのが左傾斜に変わりました。ちなみに右側の道路は、旧コトサン電車の路線跡です

総工費130万円の内訳で分かるのは、一割13万円が新琴平駅舎、第1区間(琴平・塩入)が25万円・第2区間(塩入・財田)が43万円・琴平駅の跨線橋が2万円です。
 新琴平駅が「関西以西においてはまれに見る建物」として金比羅さんにふさわしい駅舎として特別扱いで建造されたようです。また、財田川や多治川の鉄橋や大口や山脇の長い切り通し区間があった第2区間の方が経費がかかっています。
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移転した新琴平駅

さらに、琴平以南の土讃線沿線を次のように紹介します。

新琴平駅から財田に向かう乗客は列車を乗り換えて、琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ岸の上を経て真野に達す此間二里半程少し登りつつ田の中を南行する。
左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入、り福良見を過ぎ十郷村字帆山にある塩入駅に着く。この塩入駅は、里道を西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道に達するので便利の地である。この駅から満濃池へは、東方十五六町の距離で七箇村の福良見・照井・春日・本目へは距離がわずかである。
 附近の産物は木炭薪米穀類である。塩入駅から西に向かい十郷村を横断し後山大口を経て大口川を越える。この間は約二哩。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上りつつ五十五尺の高い切取や高い築堤の上を走りつつ、橋上から眺めも良い財田川を渡り百六十五間の長い切取を過ぎて一哩程進んで西向し山脇に入る。多治川を渡ると間もなく三豊郡財田村字荒戸にある讃岐財田駅に着く…(以下略)
これを読むと沿線沿いの風景が百年前の風景とあまり変わらないようにも思えてきます。
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財田川に架かる土讃線鉄橋工事

開通当時の時刻表は
下り
琴平発 五時47分▲七時六分▲十時廿五分▲十二時五十分▲四時五十分▲七時廿五分
塩入発 五時五十五分▲七時廿八分▲十時五十分▲一時八分▲五時十二分▲七時四十三分
讃岐財田着 六時十分▲七時四十五分▲十一時八分▲一時廿三分▲五時三十分▲七時五十九上り列車
讃岐財田発 六時25分▲八時廿分▲十一時四十分▲三時三十分▲六時▲八時二十分
塩入発 六時四十分▲八時三十五分▲十二時二分▲三時五十二分▲六時一五分▲八時三十九琴平着 六時53分▲八時四十八分▲十二時十六分▲四時六分▲六時二十八分▲八時55分

 一日6便の折り返し運転のようです。琴平・讃岐財田が30分程度で結ばれました。これによって財田駅は終着駅・ターミナル駅としての機能をもつ駅として賑わうようになります。人ばかりでなく、郵便も荷物も駅は扱います。この時期の財田駅の駅員数は45名と記録にはあります。池田・高知方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えたのです。その「宿場街」として財田の戸川はさらに発展していきます。
 しかし、それはつかの間の繁栄でした。6年後に猪ノ鼻トンネルが完成し、池田への鉄路が開かれると財田駅は終着駅から通過駅へと変わります。人々は列車に乗ったまま財田を通過して行くようになるのです。


四国琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代 その1 琴平参拝鉄道版

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琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代

 1889年に丸亀ー琴平間にマッチ箱のような小さな客車4両の汽車が走り始めます。しかし、以後30年間、土讃線は南に伸びることはありませんでした。第一次世界大戦後にやっと財田までの延長工事が始まります。そして、今から約百年前の1920年代は、琴平に次々と電車が乗り込んでくるようになります。琴平には4つの鉄道駅が並立する時代を迎えるのです。その過程を見ていきましょう。
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当時の鉄道工事の様子 切通の土砂をトロッコで運び線路を敷く
日露戦争後の讃岐では、電気軌通会社の設立が次のように行われます
1908 明治四十二年十月 高松電気軌道(コトデン)が設立。
1909 明治四十三年五月 東讃電気軌道が設立
1910 明治四十四年九月 讃岐電気軌道(後のコトサン)が設立
しかし、琴平までの開業は、第一次世界大戦後のことになります。
それをまず年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 土讃線 琴平-土佐山田間の路線決定
1920  2月    高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」の認可状交付
1920  4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1922 10月22日 琴平参拝電車(コトサン)丸亀-善通寺間の開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 コトサン 善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1924 10月 9日 コトサン 善通寺-多度津間の開業
1928  1月22日 コトサン 丸亀-坂出間が開通して全線開業
1929  3月15日 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄 坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線が小歩危でつながり、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止
 
  琴平への乗り入れの順番で、3つの電車会社を見ていくことにしましょう。まずはコトサンです。
 国鉄の財田までの延長に伴い、土讃線は琴平市街の東を迂回するルートになり、新駅も建設されます。創業以来、30年以上も使われてきた旧琴平駅は廃止されます。その旧駅舎に隣接して、コトサンの新琴平駅が建設され、3ヶ月後にチンチン電車の終着駅となります。

コトサンの営業申請から開業までに18年もかかった背景は?

  琴平参宮電鉄(コトサン)が、営業申請したときの社名は「讃岐電気軌道株式会社」で、明治三十七年(1904)のことです。設立から開業までに18年の時が流れています。一体何があったのでしょうか?
 この会社の発起人に名前を通ねたのは、丸亀市の生田丈太郎、仲多度郡の増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造、綾歌郡の鎌田勝太郎、木田郡の大場長平・久保彦太郎、大川郡の松家徳二 蓮井藤吉、三豊郡の小野麟吾でした。
  ここには「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門や代議員の堀家虎造・坂出の鎌田家など地元の資産家達が顔を並べています。一方で、増田一良・増田穣三の七箇村の増田家の従兄弟二人の名前も見えます。増田穣三は、当時は村長兼県会議員という立場です。彼らは、中讃地域での「電灯会社」設立にも関わっています。
 この会社の営業免許を得た後の動きは不可解です。得たばかりの営業免許を堺市の野田儀一郎ほか六名に譲渡してしまいます。その結果、創立総会も大阪で行われた上、本社も大阪市東区に置かれます。しかも、株式の第一回払込時に、地元株主の株数数は全体の二割程度でしかなかったようです。つまり、開業する意志がなく、営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないかとおもわれます。
 営業免許は、初代社長才賀藤吉の死去とともに、三重県の竹内文平とその一族に相続され、その後も高知県の江渕喜三郎、広島県桑田公太郎などの手を渡っていきます。大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
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多度津 土讃線を跨ぐコトサンのさよなら電車

コトサンの琴平駅について

 大正11(1922) 10月22日 丸亀-善通寺間の開業にこぎ着けます。翌年の8月には琴平まで線路が伸びてきます。コトサンと土讃線と四国新道は、3本が善通寺の風折あたりから条里制に沿って、真っ直ぐ南に並んで琴平に入ってきます。
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手前からチンチン電車のコトサン・その向こうに土讃線・讃岐新道が並んで走る

そして、コトサンの琴平駅は、現在のロイヤルホテル・琴参閣の場所で、南向きに新築されました。その隣には、3ヶ月前の5月までは国鉄の琴平駅として営業していた駅舎がありました。この年の土讃線の財田までの延長に伴い現琴平駅に移転したのでもぬけの殻状態でした。
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国鉄の旧琴平駅(現在の琴参閣周辺) ここに隣接してコトサン琴平駅はあった

そのため旧琴平駅舎一帯が空地となりました。 このことは事前に分かっていたのでコトサンでは、時の鉄道大臣・元田肇あてにこの廃駅舎と線路用地一切の払下願書を提出しています。しかし、なぜか琴参電鉄と琴平町との再三の払い下げ申請も、結局は実現しませんでした。
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コトサンの終点 琴平駅

コトサンヘの社名変更 

 開通に合わせて会社申請時の「讃岐電気軌道株式会社」から「琴平参宮電鉄株式会社」への社名変更を行います。大正11(1922)年11月10日に金刀比羅宮へ、次のような社名改称趣意書を提出して、賛同を求めています。(意訳)
 香川県の鉄道旅客数は、金刀比羅宮参詣者が大きな割合を占めている。讃岐を代表するのは金刀比羅宮であり、讃岐すなわち金刀比羅宮というつながりは、わが国の国民の脳裏に深く浸透している所で、琴平という地名はわが国民の意識に広く深く浸透している。我社業は中讃の要枢に交通機関経営を行うもので、従来の官線鉄道は多度津を迂回することにより時間と費用を余分に掛けていた。これを、本社の琴平への直通軌道によっていちじるしく節減できることになる。年々歳々千万の乗客は必ず我軌道を選び利用するようになるであろう。我社の前途洋々として未来に開けている。
 伊勢に参宮電車あり、高野に高野鉄道、日光に日光電気鉄道、その他、西大寺軌道、豊川鉄道、富士身延鉄道、成田電車、太宰府軌道、熱田電車、能勢電車、宇佐参宮鉄道など、有名な神社仏閣には参拝鉄道があり、その地域の基点となる地名を採って、其社に冠している。金刀比羅参りの軌道も同じである。金刀比羅宮と極めて密接深甚なる歴史的関係を有する丸亀市を起点とせる軌道を経営する我社は、従来の社名を琴平参宮電鉄株式会社と改称し、以て神徳の宏大無辺とともに社運の隆昌発展を期せんとす。  『琴平参宮電鉄六十年史』
これに対して、金毘羅宮は「願了承」の回答を直ちに行っています。
こうして、金刀比羅宮の社名に冠した琴参電鉄は、丸亀ー坂出間の全路線が開通します。
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昭和38年廃業2ヶ月前のコトサン坂出駅 JR坂出駅構内から

その後の利用者数は?

昭和三年(1928)の年間利用乗客数は387万人、
第二次世界大戦(太平洋戦争)勃発の1946年には569万人、
本土空襲が始まった1944年には832万人を数え、戦時下においては、「武運長久」を祈って神社仏閣への参拝が半ば強制され、陸海空の将兵とその家族たちの金比羅参拝の列がひきもきらない日々が続きます。まさに金比羅山参拝の足として活躍しました。
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昭和30年頃の善通寺赤門前 右が丸亀 左(直進)が多度津へのターミナル 

 そして戦後は、復員、引揚者や食糧不足のヤミ物資を求める旅客で電車は毎日超満員となる姿が日常的に見られるようになります。1947年には、1468万人の利用者をマークします。
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善通寺赤門駅北側  ここが多度津と丸亀の分岐駅

しかし、世の中が落ち着きを取り戻し、道路事情も良くなって路線バスが普及するのに伴い、電車の利用者は年を追って落ち込みます。高度経済成長のスタートとなる1960年には、年間四八四万人と、ピーク時の三分の一に激減。その結果、1963年9月15日、交通手段をバスに転換することにより、40年の長きにわたって庶民の足として親しまれたコトサン電車は廃止されました。そして、コトサンと国鉄の旧琴平駅の敷地には現在は、琴参閣ホテルが建っています。
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コトサン さよなら電車

参考文献 町史 ことひら




琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代 その3 琴電

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琴平に3番目に乗り入れた琴電(コトデン)

第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は3番目に乗り入れてきた琴電(コトデン)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック
1899                   讃岐鉄道が丸亀ー琴平間で開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 琴参(コトサン)善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1929  3月15日 琴電(コトデン)が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄(コトキュウ)坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線が小歩危でつながり、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
宇高連絡船の就航が高松の「四国の玄関口」化をもたらし、琴電誕生のきっかけに 
 明治末に高松と岡山県の宇野港を結ぶ宇高航路が開設されると、高松は四国の玄関口として、人の流れが集まるようになります。それまでの大阪から丸亀や多度津の港に上陸して金比羅さんを目指すという流れから、大阪から鉄道で岡山を経由して宇高連絡線で四国の玄関口高松へ入るという流れが主流になります。それが、高松から門前町琴平を直接結ぶ鉄道建設の気運につながります。
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1920年代の高松港と連絡船

地元主導による会社設立

 大正9年(1920)に県内の有力者大西虎之介や、四国水力発電の社長景山甚右衛門らが中心となって電気鉄道の免許を得ます。しかし、その後の戦後恐慌や関東大震災による経済の混乱で資本が集まりません。実際に会社を設立したのは大正13年(1924)7月になってからでした。当時の『香川新報』は
「資本金五百萬円の琴高電鉄具体化す。其の内四百萬円は発起人が引き受け(後略)」
と長らく棚上げとなっていた琴高電鉄(後の琴電)の着工の目処が着いたことを報じています。
設立時の発起人を見てみると、
大西虎之介・景山甚右衛門・鎌田勝太郎らが名前を通ね、創立準備委員も大西虎之介、井上耕作、蓮井藤吉、細渓宗一、細渓宗次郎、加藤謙吉、鎌田勝太郎、景山甚右衛門、竹内秀輔、武田謙、中村実、中村新太郎、中村健一、熊田長造、福沢桃介、合田房太郎、安達賢、寒川桓貞、木村淳、三輪繁太郎、瀬尾等、広瀬小三郎
であり、地元主導がうかがえます。そして、資本金500万円の内の8割に当たる400万円をこの発起人が出資することになります。先行する3つの電車会社と、資本力が違うし経営も安定します。
 この設立発起人の中に福沢桃介の名前が見えます。彼は福沢諭吉の娘婿で「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門が四国水力電気の再スタートの際に「三顧の礼」をとって形だけではあるが社長として迎え入れた経緯があります。ここでも「名前を貸した」程度で、その他の人たちは地元の有力者です。この辺りが「外部資本」が中心となった琴参(コトサン)との違うところでしょうか。

「讃岐の阪急電鉄」をめざした琴電

 琴平電鉄は、先行する高松電気軌道、東讃電気軌道が軌道線であったのに対して、当初から本格的な高速電気鉄道として着工されます。
 先行する讃岐の3つの電気軌道電車と比べると、設備が一つ上のランクで立派な設備をもち「讃岐の阪急」といわれたようです。
 例えば、軌間は広軌(1435mm)を採用し、架線電圧は当時の地方鉄道としては珍しく1500Vを採用しています。架線柱はボオル結構式四角鉄柱が採用され、銀色に輝く架線柱の連なる様子は人目を惹きました。畑田変電所には1500V用としては、我が国初のドイツ・シーメンス社製の600kW水銀整流器が2台設置されました。鉄橋は日本橋梁製のプレートガーダー橋、各駅のプラットホームはコンクリート造でした。
 各駅の建築に際しては、社長の大西虎之助が自分の目で阪急、南海、阪神を視察しています。そして、栗林公園駅は南海の羽衣駅、挿頭丘駅は阪急の仁川駅を参考にして、当時としては讃岐では今まで見たことのないような都会的なセンスの駅舎が姿を現します。
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「乗降客で賑わう滝宮駅」ではありません。「電車見物」で賑わっているようです。

 車両は全て新品で、汽車製造会社製の1000形及び日本車輛製の3000形を各5両、さらに、昭和3年(1928)には加藤車輛製の5000形を購入しています。当時としては最新鋭の半鋼製ボギー車で、機器類も制御器、パンタグラフは米国・ウエスチングハウス社、ブレーキはスイス・クノール社、モーターはドイツ・アルゲマイネ社製というように舶来品を多数装備しています。当時の地方私鉄電車としては、ランクが相当高い車両で、乗客が履物を脱いで乗車したという話もも残っています。そして、高松~琴平間を当時の省線(国鉄)よりも40分も短い1時間前後で走り「高速鉄道」「立派な設備」というイメージを利用者に植え付けるのに貢献しました。琴平電鉄は「讃岐の阪急」をめざしたのです。
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 琴平に伸びてきた琴電の線路は、6年前に南に延びた省線(鉄道省の鉄道=国鉄)の土讃線と終着駅手間でクロスします。このために、土讃線は金倉川から新琴平駅までは高く土盛りされ土讃線の下を琴電が通るように事前に設計されていたようです。


琴電の開通

大正15年(1926)12月21日に栗林公園~滝宮間が開業
昭和 2年(1927)3月15日には滝宮~琴平間、
        4月22日には栗林公園~高松間が開業
琴平全線(31㎞)が開通します。
駅は高松、栗林公園、太田、仏生山、一宮、円座、岡本、挿頭丘、畑田、陶、滝宮、羽床、栗熊、岡田、羽間、榎井、琴平の17ヵ所。      全区間の運賃は65銭でした。

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 琴電琴平駅

 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れたのは昭和2年(1927)3月15日の春の日でした。沿線の駅舎は、阪急などの駅舎を参考にしたと前述しましたが、終着駅の琴平駅だけは別格でした。この駅だけは、地元の高松工芸高校建築科の建築家に、門前町にふさわしい駅舎を依頼しました。それが、金倉川と高灯籠の間のスペースに姿を見せたのです。この地は、金倉川の洪水で護岸が流された所を整備して確保した所です。
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この写真は、修学旅行で琴平に宿泊した小学生達を宿の主人が琴電琴平駅のホームまで見送りに来ているシーンだそうです。壺井栄の「二十四の瞳」の中にも、遠足で小豆島の子ども達が金比羅宮に参拝するシーンがあったような記憶があります(?)

多角化経営を目指す琴電の手法は?

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しかし、琴電の経営は厳しかったようです。沿線は内陸部の田園地帯で人口が少なかったことや、昭和初期の金融恐慌なども重なり、開業後は業績不調が続きます。このため会社は沿線の祭事等の開催に合わせて運賃割引を行ったり、女給仕が生ビールや洋食を販売する納涼電車を走らせたり、挿頭丘と滝宮に開設した納涼余興場を売り出し、乗客を増やそうとあの手この手の営業活動を行います。

また、阪急の商売に習って、岡本駅の隣に遊園地を作ったり、郊外駅周辺での住宅団地の造成など沿線開発にも取り組みました。
 また琴平電鉄は、電力会社として配電事業の認可を受けており、沿線周辺への電力供給を行えました。そのため、鉄道沿線に沿って事業を営んでいた岡田電燈株式会社を買収し、会社収益の大きな支えとします。
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戦時下に、電車会社3社を統合し、高松琴電気鉄道が誕生

 日中戦争が勃発し、戦時体制が色濃くなった昭和13年(1938)8月、鉄道・バス会社の整理統合の促進をはかるため陸上交通事業調整法が成立します。金刀比羅宮の門前町琴平は、4つの鉄道が集中し鉄道過密状にあったため「交通事業調整委員会」での審議の結果、この法律の適用地域に指定されます。
 その結果、政策的に鉄道会社の統合が促進されます。
まず、配電統制令によって鉄道に先行して各社の電力部門が統合され、四国配電株式会社(後の四国電力)が発足し、各社はやむなくドル箱だった電力事業を失います。電力事業を分離した四国水力は解散し、鉄道部門はバス会社と統合し讃岐電鉄となります。
 昭和18年(1943)11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合し、高松琴電気鉄道が誕生します。社長には琴平電鉄の社長であった大西虎之介が就任しました。
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高松空襲と琴電

 昭和20年(1945)7月4日未明、高松空襲により高松市内線全線と、市外線の栗林公園前~瓦町間は壊滅的な被害を受けます。琴平線の車両は避難して無事でしたが、長尾・志度線の車両は20形、30形、50形、散水車100形など6両が全焼します。本社の社屋は焼失を免れますが、琴電高松(瓦町)駅舎が半壊、今橋駅舎、出晴駅舎は全焼し、今橋の変電所と車庫も焼夷弾で被災します。
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10角形という珍しい形だった河原町駅の空襲後の姿 この後、蘇り駅舎として使用 

色々な会社の電車が琴電にやって来るようになった背景は?

 終戦後、復興の動きが増すにつれ電車の利用者は急激に増加します。しかし、車両は戦災などで不足してました。しかも、物資不足で車両を増備したくてもメーカーの生産能力は低下しています。絶対的に車両が不足している上に、新車両を購入できる目処もなかったのです。そこで運輸省が音頭をとって、新車を優先的に都市部の大手電鉄へ割り当てます。その代わりに、新車の割り当てを受けた大手私鉄は地方私鉄に中古の代替車両を提供する仕組みが作られます。
 琴電でも新車のモハ63系電車の割り当てを受けた東武鉄道から昭和22年(1947)に3両の電車の供出を受けます。これを皮切りに、東急と山陽電鉄、さらには国鉄からも車両提供を受けています。
 しかし、終戦直後の混雑はあまりにも激しかったため、供出車だけでは足りずに国鉄から戦災で焼けた貨車を6両を購入し「客車に改造」して走らせました。貨車を電車に改造したこの車両11000形には一般客から「乗客を貨物扱いしている」という批判もあったようですが、「歩くよりは、電車に乗れた方がいい」という声の方が当時は強かったようです。
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この貨車改造車の1000形は昭和23年(1948)8月から約3年7ヵ月間使用されました。この時期を「戦後の混乱期」と呼ぶのも頷けます。

参考文献 森 貴知「琴電100年のあゆみ」JTBパブリッシング

絵図と写真で追う四国琴平 金堂と高灯籠

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ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ

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 ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。

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 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された金堂です。明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、今はがらーんとしてして何もありません。外観は寺院で柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
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清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
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 金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
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   高灯寵の建造  

 このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。 
高灯籠の事
 右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
   年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」

ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」

で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
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 この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。

これだけの募金が集められた寒川の経済力の源とは何だったのでしょうか?
 
 東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが
弘化元年(一八四四) 一七五〇町、
嘉永元年(一八四八)二〇四二町、
安政三年(一八五六)三二二〇町、
安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
 
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総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。

工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。
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 上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。
 この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。
もう少しワイドに見てみましょう。

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日露戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう 
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右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
 鳥居と大きな木に注目して下さい。

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丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。

丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。
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1900年前後の高灯籠周辺は空き地

土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。
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大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
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その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
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参考文献 町史 ことひら 


金毘羅さんの桜の馬場と五人百姓の由来

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桜の馬場と五人百姓の由来イメージ 3

金比羅大芝居が始まる頃が、金毘羅さんの櫻の見頃になります。
いつものように原付バイクで、牛屋口経由の近道ルートでアクセスするとここに出てきます。
ここは五人百姓のひとつ笹屋さんのお店。
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振り返ると石段が続きます。
そしてお目当ての桜も満開。
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すぐ大門が迎えてくれます。
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大門をくぐると・・・

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大きな朱色の傘 の下で「こんぴら飴」を売るのが見えてきます。
これが金毘羅の「五人百姓」です。
「五人百姓」は、金刀比羅宮から大門(二王門)内の飴売りについて独占的営業権を持っていてます。金毘羅大権現の神事祭礼に関与し、神役を勤めてきた特定の家筋(山百姓)であるとされています。
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しかし、近年新しい考えが出されています。
「五人百姓」は、金比羅さん成立以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与をしていたのではないかという説です。

「金比羅神」は近世に創り出された流行神です。
もともと、真言宗松尾寺があり、松尾寺の守護神(鎮守)の一つとして金毘羅神が祀られるようになります。その金毘羅神が近世に流行神となり、金毘羅大権現として大いに繁栄したというのが歴史的事実のようです。金毘羅・金毘羅神(クンピーラ)とは本来はインドの土着神で仏教とともに伝来し、仏法の守護神の仏として祀られ、金比羅大権現に成長していきます。日本の所謂「神」とは何の関係もありません。
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桜の馬場はまさに「桜のトンネル」状態になっています。
聞こえてくるのは、中国語が多いようです。

金比羅神登場以前のこの山は、どうだったのでしょうか?

鎌倉期には西山山麓に称明院、山腹に滝寺があり、もともとは観音霊場であったようです。
そして、これらの霊場は修験道者の行場センターでもありました。初期の金比羅信仰の指導者となった僧侶達も多くが修験道者です。その一人は、神として奥社に祀られています。奥社にはその行場の岸壁に天狗の面がかけられています。これが何よりの証拠です。
天狗は修験者の象徴です。
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奥社の岩場に架かる天狗面
それでは古代から中世に、この山に修験者が入ってくる前はどうであったのでしょうか?

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修験者の宥盛が厳魂彦命(いずたまひこのみこと)として祀られる「厳魂神社」=奥社

山岳密教や四国巡礼の研究が進むにつれて、行場を求めて山に入る修験者と在地の「百姓」(中性的意味での)との間には、最初は軋轢があったことが分かってきました。それが空海伝説にも数多く伝えられています。対立を越えて、両者が共存していく術が創り出されていったのでしょう。

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「五人百姓」も、もともとは象頭山(琴平山を含む大麻山塊周辺部)一帯で狩猟を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったのではないかというのです。
 従来は「百姓」は農業従事者と理解されてきました。しかし、中世では、単なる農民ではなく「百の姓」つまり、農業者、漁業者、技術者(職人・芸人)など広く一般の民衆を指す言葉でした。そうすると「山百姓」とは、象頭山(金毘羅大権現)の山の百姓であるとも考えられます。
 また、飴売りについても「五人百姓」が近世以来、独占販売権をもっていたようではないようです。それを示す史料は天保四年(1833)12月1日付けの山百姓嘆願書に「従来御当山御神役」を勤めていることと「先年より御門内にて飴商売後(御)免」の記事のみである(琴陵光重『金毘羅信仰』S24)
 資料的に独占的飴売りと「五人百姓」とをストレートに結びつけるのは気が早いようです。むしろ、金毘羅大権現の神役を勤めてきたことから得た利権であると見た方が自然です。
イメージ 11「五人百姓」が持つの神役の役割を探ることが必要です
五人百姓は金毘羅神事において重要な役割を果たしてきました。なかでも金毘羅大祭会式の十月十一日の夜に本殿で行われる秘密神事は注目されます。現在でも神官が蝶(ゆかけ=生乾きの獣皮で作った革手袋)で頭人の頭を撫でる所作があります。この秘儀は、古老の伝として、
「・・・この行事は、以前三十番神を祀ったおかり堂(三十番神社)で、五人百姓の関与のもとに行われ、頭人のクライオトシといっていた。また、ここでの行事が、最も重要なものであった」という。さらに、「・・・頭人たちは、血生ぐさい牛革を頭につけられるのをきらった」ともいう。土井久義氏(「金刀比羅宮の宮座について」『日本民俗学』31号)
この辺りに「五人百姓」の意味が隠されているようです。このように「五人百姓」は金毘羅信仰の導入以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与をしてきています。彼らは中世後期まで象頭山(琴平山を含む大麻山塊周辺部)一帯で狩猟を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったか。つまり、琴平山の先住者であり、祭祀権を含む中世「こんひら」地域の在地領主であった可能性が高いと考えられるようです。

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大門からの遠景

そんなことを考えながら五人百姓の今の姿をみまもっていました。

参考史料 唐木裕志  讃岐国中世金毘羅研究拾











金毘羅さんの奥社に祀られているのは修験道の山伏?

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近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルです。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています。
「夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る               崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り」
 ここにも天狗が登場します。
当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったことがうかがえます。

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金毘羅神(大権現)は、どのような神だと民衆には説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」と薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」とあります
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。

それがインドから象頭山に飛来したのです。
まさに天狗そのものです。そして
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
とされます。これはまさに修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 金毘羅大権現像 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている宥盛は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。
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 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。
  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。
 高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける
  金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。
    善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む          ⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り    「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛はとなり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。
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